水底から望む

 人の都合を全く考えない急な呼び出しといえど、石の柱を抱かされた初回を思えば、場所がベッドであるというだけで許容できた。他者に一方的に与えられる苦痛は訓練でしごかれるの似ていたが、慣れるのに応じて段階を上げられることがない分、訓練を受けるより楽かもしれない。
 何度目からか存在を感じるようになった快楽をあえて遠ざけながら、デスマスクは自分を犯している、教皇のマスクも法衣も取り払ったサガの姿を見た。
 恐ろしいほどに均整の取れたサガの肉体は、ナントカいう美術館にある彫像にも引けを取らない。いかにも女神が存在しているかのように振る舞う偽の教皇のことも、あれだけ慕っておきながらアイオロスの反逆を信じてしまった人々のことも相当に可笑しかったが、神の化身とまで称された美しい男が、自分の尻穴に突っ込んで腰を振っているということほど、デスマスクの笑いを誘うものはなかった。
「……何を笑っている」
「いーえ、何も」
 まずいと思えど今さら遅い。開き直ることにしたデスマスクは、知らないうちに表に出ていた笑みをさらに深めた。答えを受けたサガの、未だ見慣れぬ黒い髪がざわりと動いた気がしたが、見下ろしてくる表情に変化はない。
「蟹座」
「はい」
 優雅さを感じるほどにゆったりとした動作で、デスマスクの喉元へと手を伸ばしたサガは、デスマスクの喉を撫でながら、口端を持ち上げて笑った。デスマスクが浮かべている笑み、そっくりそのまま、鏡のように。
 愛撫の延長のように触れていた手に、明確な意図を持った力が込められる。
「……ッ、ヒュッ……!」
「蟹座」
「はい……っ」
 たとえ青銅の末席であろうとも、聖闘士であれば人間の首の骨を折るのに満身の力を込める必要はない。ましてやサガは黄金聖闘士として双児宮を預かり、聖域を統べる教皇にすら成り代わった男だ。聖衣を纏っていない生身の肉体を縊るなど、赤子の手をひねるよりも容易いことだろう。ゆえに気道を押しつぶすのみに加減された力は、首を絞めるというこの行為が、戯れに過ぎないことを示していた。
「よく締まるな」
「は……ぁあっ……」
 それはデスマスクの意志ではなかったが、不規則な痙攣と収縮はサガに快楽をもたらしているらしい。焦らすようにゆっくりと絞め上げられ、徐々に難しくなる呼吸が意識の大半を占め始める中、デスマスクは酸欠と涙のせいで霞む目と、高まり続ける耳鳴りと鼓動のせいでろくに聞こえない耳を、それでもサガに向けた。燈台の明かりの中でギラつく、血のように赤い瞳。それに向かって笑って見せたつもりだったが、上手くできた自信はなかった。
「かッ、ア、」
 デスマスクの余裕に加虐心を煽られたのか、嬲るようだったサガの手の力が一気に強まった。防衛本能に駆られて一度はサガの腕を掴んだデスマスクだったが、サガの反応を待つまでもなく、自ら手を下ろした。ひとつの体の中で起こる本能による反抗と理性による服従のせめぎ合いを、刑の執行を見届けるように冷徹な眼差しで、サガが見ている。それを肌で感じながら、デスマスクは自分の両手をシーツに繋ぎ止めた。
「いい心がけだ」
「アッ、ァ……!」
 食い込んだ指に血流を阻害されて、デスマスクの顔が赤黒く鬱血する。爪先が虚しく宙を掻き、サガの手から逃れようともがく首とはちぐはぐに、穿たれた後孔は縋りつくようにサガの欲望を締め付けた。唾液を泡立てる喘鳴すらも途切れ途切れになり、とっくに焦点が合わなくなっていた目玉がぐりんと裏返る。垂れ流される涙と涎と鼻水で、デスマスクの顔には光の筋ができていた。
「蟹座のお前には似合いの顔だ」
 その言葉を聞いたのを最後に、デスマスクの意識は闇の中へと落ちた。


「……ガハッ、ゲホッ!」
 咳と共にこみ上げた嘔吐感を、何度か唾を飲むことでやり過ごしたデスマスクは、起き上がろうとするなり襲ってきた目眩と鈍痛に、顔をしかめた。酸欠を起こしていた頭や絞められた首は当然ながら、気付けのために叩かれたのだろう胸が案外痛い。顔どころか髪まで濡れているのは、水をかけられでもしたのだろう。片手で顔を拭い、水を滴らせながら落ちてくる前髪を掻き上げる。
「デスマスク」
「……?」
 常にない気遣わしげな声音に違和感を覚えたデスマスクは、未だ定まらぬ視界に、明かりを含んできらめく金の髪を認めて、少しばかり目を見開いた。
「……珍しいな」
 閨事――と言える甘やかさは一切なかったが――の際に、こちらのサガを見るのは初めてのことだった。デスマスクが漏らした感想に思うところがあったのか、サガは口を開きかけたが、何も言わないまま再び口を噤み、すいと目を逸らした。デスマスクはその行動を、常に正しくあろうとするサガにしては珍しい、と重ねて思った。
 少し待っていろ、と言い残して、デスマスクの視線から逃れるように部屋を出るサガを見送ってから、デスマスクはゆっくり首を動かした。ぐっと拳を握っては開き、多少の痺れはあるものの、体が問題なく動くことを確かめる。宿直の兵に気付かれないよう一瞬だけ、意識して小宇宙を巡らせる。こちらも問題ない。超人的な攻撃力を身につけている聖闘士も、肉体の仕組みそのものは並の人間と変わらない。長時間にわたる酸欠は、生命活動に支障を来す理由としては十分だった。
「よし」
 いつもならば、体に鞭打ってでも身なりを整えて、サガの――教皇の居室から去っている。今回の邂逅は、デスマスクが失神したことによって起きた、言わばイレギュラーな事態だ。人格の交替は、どちらが表に出るにしろ、ある程度の消耗を伴うらしい。面倒を押しつけて引っ込んだのか、それとも無理やり押さえつけて表に出たのか、入れ替わるに至った過程は分からないが、こんなくだらないことでサガを摩耗させるべきではない。
 重い体を引きずっていったデスマスクは、ドアを目前にして、折悪しく戻ってきたサガと正対した。
「……待っていろと言ったはずだ」
 サガの眉間に力が籠もる。意図的に浮かべようとしたデスマスクの笑みは、サガの瞳に射すくめられて、頬を半端に引きつらせるに終わった。もう一人の方に凄まれるのは慣れているが、こちらのサガを相手にするのは、子供の頃を思い起こさせてどうにも苦手だった。
 立つのがやっとの状態で、サガが背後に守るドアから出られるはずなどなく。デスマスクの身柄は、ベッドへと逆戻りした。

 サガはわざわざ湯を沸かしていたらしい。温かなタオルで、体を包み込むようにして拭われる。巨蟹宮に戻ってシャワーを浴びた方が早かったが、押し問答をするよりも、サガの気が済むまでさせればいい、とデスマスクはされるがままになる方を選んだ。様態は違えど、もう一人のサガへの対応と同じだということが頭をよぎったが、知らぬふりをした。この状況で思考するのは、面倒だし、疲れる。
「痛みはどうだ」
「まあ、そこそこ。長引くことはないだろ」
 しばらく跡が残るだろうが、幸い明日から外地任務がある。包帯でも巻いて隠すことはできるが、黄金聖闘士の負傷というのは外聞が悪く、それならば見咎める者のいない聖域から離れることが最良だ。サガの行動は突発的なことだと思っていたが、それを見越してのことならば感心するほかない。
 粗方拭き終えたサガは、タオルを湯の中に泳がせた。ゆすいでは絞られるタオルが最後まで温かいままだったということは、湯温はそれなりに高かったのだろうが、サガの手の肌に変化はない。女神の加護という曖昧なものに頼らなくても、人は強くなれる。サガを形作るほんの些細な、取るに足らない事象が、それを裏付ける。
「立てるか」
「さっき立ってるの見ただろ。平気だって」
 デスマスクの答えに、サガは一度深く目を閉じた。
「……中に、出しただろう」
「ああ、おう、出てたな」
 いつものことなので別段意識していなかったが、確かに、出された精液は腹の中に残っている。テレキネシスで内に留めておいて、巨蟹宮に戻ってから掻き出すという作業は、サガに呼び出しを食らうところから始まるひとつのパターンの最終工程だ。サガと関わりのない部分をサガの口から聞くのは、何とも奇妙な気分だった。
 感じた奇妙さの影に潜んでいたものがデスマスクの第六感を揺らしたとき、再び開かれたサガの目が、デスマスクの目を捉えた。その時点で、デスマスクの予感は確信へと変わった。


 精魂尽き果て、ぐったりとベッドに横たわったデスマスクは、服を整えるサガの背中をちらと見てから、再び顔を伏せた。先ほど目覚めたとき違って外傷は全くなく、おかげで意識を他所に向けようがない。
 デスマスクが自身でするよりもずっと優しい力で肉を開く手と、口づけでもって注ぎ込まれるぬるんだ湯。尻の中に湯を注がれても、準備を済ませた状態で参じているのだから、出るものといえば精液以外になかったが、それでも人にされるというのは受け入れがたい。日頃見られる暴力的な要素は一切なく、そこから生まれた余裕は完全に裏目に出た。拒絶していただけで、今までにも予兆はあった。羞恥と合わさることで切り離しが間に合わなくなった快感に追い詰められて、堪え切れずにサガを求めてしまった。
 それでサガが応じたのならばよかった。
 そうならなかったことが、デスマスクが伏している理由だった。
 一方的に欲を引きずり出された敗北感が、気力を削ぎ落としていた。
「…………俺、戻るわ」
 わずかでも眠らなければ、活動に支障が出る。聖闘士として染み付いた習性から体を起こしたデスマスクの背中に、サガの声がかかる。
「私が言えたことではないが、お前は自分の体を大事にすべきだ」
「……違うぜ、サガ」
 デスマスクは床に足をつけた。
「俺は自分の身が可愛いから応じてるんだ」
 応じなかったからといって、積尸気の行列に加わるような結果にはならないだろうが。
 裸足のままひたひたと歩いて行き、落としていたマントを拾い上げる。皮肉にも、痛むかどうかという点では完全に回復していた。思考が任務に傾いていく中で、今日の一件の記憶が、サガの中でどの程度共有されるのかということが気掛かりだった。

投稿日:2014年7月28日