知りたい

 聖域に住まう者の食の多くは、闘技場にほど近い場所にある厨房で賄われている。与えられた住居の調理設備が未使用のままに捨て置かれるのは珍しいことではなく、むしろ自炊する者の方が少数派だということは、厨房に併設された食堂の賑わいからも明らかだ。
 立場上、聖衣を持たない兵達の集う食堂の利用こそしないものの、アイオリアは厨房で作られる料理を日々の糧としていた。野営に備えた料理の心得はあったが、日常的にとなると面倒くささが先に立つ。近場の市への買い出しならば、伺いを立てずとも自らの名前だけで人を遣わすことができるという権限も、無用の長物となっていた。

 シャカの普段の食事が、厨房で作られるごく一般的な料理であると知ったのは、たまたま鉢合わせたシャカと十二宮に戻る道すがらで交わした、何気ない会話からだった。
「そんなに意外かね」
 シャカはアイオリアの反応こそが意外だという口ぶりで言った。
「きみもそうだろうに」
「俺は生まれも育ちもギリシアだ」
 厨房で作られている料理は、いわゆるギリシア料理だ。聖衣を纏っている時でさえ異国の空気を漂わせているシャカが、日常的に自分と同じものを食べているという違和感は、シャカは一部の者がしているように故郷の料理を食べていると思っていたアイオリアには、いっそ食物は必要ないと言われた方が納得できそうなほどだった。
「なるほど。確かにわたしは生まれも育ちもここではない」
 シャカはアイオリアの端的すぎる言葉から、言わんとすることを察したらしく、ひとつ頷いた。
「しかし、今となってはここで過ごした時間の方が長いのだ。郷里の味も好いてはいるが、この地の料理を食べたときに抱く感覚は、きみとそう変わらないだろう。献立の好みこそあれ、概して『いつもの味』だ。何も不満がないのに人の手を煩わせることもあるまい」
 あらかじめ用意していたような立て板に水の反駁に、異論を差し挟む隙はなかった。思わず歩みを緩めたアイオリアの一歩先で、シャカは足を止めた。振り返って、アイオリアに目を向ける。アイオリアは、やましいことがなくても落ち着かない気分にさせられるその視線が、少し苦手だった。
「わたしが乙女座として聖域に戻ったとき、気を利かせようとした者もいたのだよ。だが残念なことに、ここでは材料が手に入りにくいのだ。まさか仕入れのために外出許可を得、テレポーテーションするわけにもいくまい。瞑想の助けとするために香を求めることはあるが、わたしの能力は食に依る部分は大きくないのでね、こだわる必要はなかった。それに、この地に生きる者が、同じ地で生きる者のために用意した食事をとることで、得られるものもある」
 黄金聖闘士の中で、ギリシアを出生地とする者は半数にも満たない。教皇ですら、遠くジャミールの出身だという。それでも聖域に住まう人間に、ギリシア人を至上とする意識を持つ者がいることは、紛れもない事実だ。聖闘士となった者よりも、なれなかった者にそれは多い。そして聖域における人口比率は、聖闘士よりも聖闘士でない者の方が多い。
 シャカはギリシア人でなかったがために、せずともよい苦労をしたことがあるのだろうか。
 アイオリアが胸中に疑問を湧かせたと同時に、シャカはくるりと背を向けた。
「料理法を書き留めた書はまだ残してある。試してみるかね?」
「……いいのか?」
 シャカが詮索されることを避けたのは明らかだったが、元よりそれほど興味はない。シャカが明かすことを望まない以上、聞いてどうこうなる話ではないからだ。それよりも、思いもよらないシャカの誘いは、アイオリアの好奇心をくすぐった。
「さて、どうだろう」
「どうなのだろうとは、どうなのだ」
「言ったとおり、聖域で材料を揃えるのは難しい。記された内容の正誤も不明だ」
「食い物として作るのだから、食えんということはあるまい」
 一歩引いた発言を、シャカにしては珍しい、と思う前にアイオリアは口に出していた。意味ありげに「ふむ」と言ったきり、否とも応とも返さないまま歩き出したシャカの後ろを追う。――追っているつもりはないが、何せ行き先は同じだ。
 やがて肩越しに振り返ったシャカが言った。
「わたしが手料理を振る舞うのは初めてのことだ。光栄に思いたまえ」

   ◇

「カレーの味がする糞と糞の味がするカレー、食すならどちらがよいかね?」
「……なんだそれは」
 食器を洗っていたアイオリアは、寄せた眉毛とへの字の口を取り繕うこともなく、チャイの支度に取りかかるシャカを見た。目を閉じていようとも、アイオリアの表情など手に取るように判っているだろうに、シャカの顔はそよ風が吹いたほどの変化もない。
「星矢に聞かれたのだ。究極の選択と言うらしい。最初は何と無礼なこと聞くのかと思ったが、なるほど、おもしろい問いだ」
「お前のおもしろいの基準は分からん」
 溜息ひとつ。視線を戻したアイオリアは皿洗いを再開した。
 選び難いものを選ばせることだけを目的にした質問は、アイオリアが知っていた、大切な者の命を天秤に掛けさせるようなものとは随分と毛色が違う。しかし子供らが戯れに問い合うに相応しい、バカバカしいほどに平和なものだ。アイオリアは星矢の子供らしい――というより、悪ガキそのものの笑顔を思い起こした。
 候補生の訓練を見てやっていたところに、女神に会いに行くのだと言う星矢が通りかかったのは昼前のことだ。少し名残惜しげにしていたのを、今度稽古に付き合ってやろうと言って送り出した。獅子宮に戻ったのはその後間もなくで、それから宮を離れていない。
「…………」
 夜も深まろうとする時刻になっても、星矢はまだ戻っていない。
 たとえ平時であろうとも、アテナ神殿へは十二宮を通り抜けねば辿り着くことは叶わず、帰りもまた同じ道を逆戻りするほかない。大方女神か他の誰かに引き留められているのだろうが、同時に浮かび上がった可能性にアイオリアは表情を曇らせた。
「……シャカよ、星矢はまだ戻らないか?」
「言われてみれば戻っていないが、きっと女神に引き留められているのだろう。今日はもう遅い。彼が今から戻ってくるにしろ、用があるなら明日にした方がよかろう」
「そうか。いや、すまない。気になっただけで用という用はないのだ」
 茶を煮出しながら答えるシャカの言葉に偽りの色はない。危惧したような、礼を失した質問をした星矢に、シャカが何らかの制裁を加えたという可能性はなさそうだった。
 アイオリアは安堵を感じながら蛇口を捻った。
「……女神がこの聖域に来臨なされたあの日、星矢たちにこのシャカの目を開かせるなと言ったのはきみだそうだな」
 シャカの発言から数秒間、アイオリアは皿を洗っていることを忘れた。スポンジを握りつぶした手からぼたぼたと泡が垂れ、それを流れっぱなしになっている水が洗い流してゆく。
「……!」
 アイオリアは慌てて水を止めた。止めてから、はっとして、もう一度蛇口を捻り直す。皿も手も、まだ泡だらけだった。
 シャカは見るからに動揺しているアイオリアに視線を向けることなく、煮立った小鍋に乳を注ぎ入れながら言葉を続けた。
「なぜそのような半端な教え方をしたのだ。おかげで出会い頭に技をかけられる羽目になったのだ。あれでは反撃に出ざるを得ん。あのような餓鬼共が寄り集まってもこのシャカの脅威にはならんが、きみはあたら若い命を失わせるところだったのだぞ」
「うっ……」
 ひとまず洗い上げた皿を一枚、水切りに入れたアイオリアは言葉に詰まった。非難にしては語調は穏やかだが、シャカの言葉は胸に刺さるものがある。忘れていたわけではない。今さらとも思わない。女神が聖域に戻ったことと、十三年間にも及ぶ簒奪の事実と事後処理の前には、それぞれの胸に仕舞った部分を話す機会はなかった、それだけのことだ。
 半端な助言となってしまった理由について、何と言ったものか。言葉にできずにいるアイオリアの沈黙を助けるように、チャイを漉す軽やかな水音が響く。
「きみが何も言わずとも、結果はきっと変わらなかっただろう。彼らが処女宮を通ろうとする以上、わたしは処女宮を守る者としての務めを果たそうとしただろうから」
 シャカはコトリと小鍋を置いた。湯気と共にふわりと香りが広がる。
「……それでも、わたしは誰が相手であれ、戯れに攻撃を加えることはない」
「シャカ!」
 カップを両手に持ってダイニングに戻っていくシャカの背を追おうとして、アイオリアは洗い途中のまま残っている皿と器をちらと見た。

 結局食器を洗い終えてから戻ったアイオリアは、チャイを飲むシャカと、シャカの正面に置かれたもう一つのカップを見下ろした。距離は食事を取ったときから変わっていない。当のシャカが何を考えているかは分からないが、先ほどアイオリアが想像した、星矢の帰りが遅い理由に勘付いているだろうことは想像に難くなかった。
「詫びの言葉は不要だ」
「な、」
「きみの気が収まらぬと言うのならば受け取るが、得手ではないだろう?」
 出鼻をくじかれ、それでもアイオリアは言葉を探ったが、シャカが言う通り得意ではない。釈然としない思いを抱えながら、腰を下ろす。同じ高さで見るシャカの顔に、先ほど感じたような寂しげな様子は微塵もなく、それどころか満足げな空気すら漂わせていた。
「きみがその考えに至る心当たりはあるのだ。きみがわたしの話を聞かないから、つい強引な手に出ることもある」
「お前に話を聞かないなどと言われるとはな」
「わたしがきみに話すよう求めたときに、答えを返さないのはきみのほうだぞ」
 アテナ来臨の日、というキーワードを与えられていた頭が、芋づる式に記憶を呼び覚ます。今日は痛いところばかり突かれる日だ。
 冷めてしまうぞ、という声に促されて、アイオリアはうっすらと湯気の立つカップを傾けた。
「……先の星矢の質問、わたしは糞の味を知らないが、食物である以上、たとえ味がそうであろうともカレーの方がよいと答えたのだ」
「こ、答えたのか!?」
「気が向いたのだ。求められれば手を差し伸べてやることもある」
 含んだばかりのチャイを吹き出しそうになったアイオリアに、シャカは平然と答える。驚いたのはそこにではない、とアイオリアは思ったが、指摘するのも面倒なので言わずにおいた。
「……星矢は何と?」
「笑っていたよ。答えるとは思わなかったとな」
 その様子を思い出しているのか、シャカの頬に微笑が浮かんだ。以前のシャカからは考えられないことで、自分も含めた黄金聖闘士全員に当てはまる変化かもしれない。人間としては好ましい変化だろう。人間らしくあることが聖闘士として良いのかどうかはともかく、今生の女神は、女神自身を含めて人間であることに肯定的だ。
 食事をするというのはひどく人間的な行為だ。聖衣を教皇預かりにされ、雑兵同然の扱いを受けていた時であっても、アイオリアは黄金聖闘士であるという立場を守って、雑兵に混じって食事を取ることはなかった。頻繁ではないにしろ、シャカと共にする食事を一度きりにしなかったのは、知らずのうちに感じていた人恋しさを埋めてしまったからかもしれないし、また別の理由かもしれない。今となっては分からないが、同じものを食べているシャカを目にして、親近感を覚えたのは確かだった。
 今でこそまともな味になっているが、あの時のシャカの料理はひどいものだった。聖域どころかギリシアで揃えることが難しい材料のためにした苦労を無駄にすることはできず、四苦八苦して胃に流し込んだ。ただ、それすらも楽しかったということを、シャカの苦しげな表情という貴重なものと一緒に記憶している。レシピに誤りがなかったことは、残った材料とレシピを持って、厨房のスタッフに頼みに行って初めて分かったのだった。
「アイオリアよ、たまには私の問いに答えてみないかね?」
「……いいだろう」
「毎度そのように難しい顔をするくせに、きみはわたしの誘いに乗るばかりか、律儀に自分の宮にも招く。最初の一回で義理は果たしているはずなのに、だ。どうしてだね?」
 もう答えは出ているのではないか。そう思いはしたが、先に承諾したことと、借りがあることを踏まえて、アイオリアは諦めた。難しい顔のまま、閉ざされた瞼をまっすぐに見返す。
「お前とこうしている時間は、嫌いではないのだ」

投稿日:2014年7月6日
シャカの目の件はアイオリアの教え方が悪いと思います。