期日まで

「甚壱さま」
 呼ばれた甚壱は、障子の向こうに意識を向けた。
 用がある時は、夕食が済むまでに伝えるようにしている。遅い時間に沙代が甚壱の部屋に来るのは、稀なことだった。
「今日は一段と冷え込みますから、湯たんぽをお持ちしました」
「……そんなに冷えるか」
 甚壱は寒さに強い性質だった。生来の頑丈さで夏バテとは無縁なものの、暑がりの部類だといっていい。部屋に備わった暖房も、使わないことの方が多かった。
「戸締まりの確認に出ましたら、息が随分と白くなっておりました。ご不要でしたらお下げします。どうぞ、ご随意に」
「……せっかくだ、貰おう。入れ」

 部屋に入った沙代は、暖気を逃さないために障子を閉めた。布団は既に伸べてある。甚壱は自分が柄にもなく緊張しているのを感じた。
 かすかな衣擦れと、羽毛布団をはぐる音。吸い寄せられる耳を引き戻す。さっきまで読んでいた本が、見知らぬ文字の羅列に変わっている。
 沙代は甚壱が肌掛けでいいと思っている時季に合い布団を布団の脇に備え、まだ合い布団でいいと思っている時節に本掛け布団を出してくる。準備がいいと言えばそうだが、大の男に対してするにはいささか過保護な感がある。
 沙代の実家を継いだ弟は、長じるまでは病気がちだったと聞いている。婿を迎える案があったとも。
 身の振り方の話をして以降、過剰な警戒が解けると共に、沙代のまめやかさは顕著になった。身についたものに加えて、捨てられまいとする無意識が働いているのだろう。

「夜分に失礼をいたしました。お休みなさいませ」
 再び障子を開ける音がしてからやっと、甚壱は沙代の方を見た。冷え込むと言ったくせに、礼儀の一環として板張りの廊下に膝をつく。それをやめさせる方法を、甚壱は知らない。
「……暖かくして休め。俺に合わせていては風邪をひく」

 孕まないから使いやすいだろう――。
 甚壱は沙代を貰い受ける交渉をしに行った時に言われたことを、頭の中で繰り返した。
 甚壱に子を持つ気がないのは家中で知られた話だったし、理由の推論を披露されるのにも慣れていたが、家政婦を雇う時にまで持ち出されるとは思っていない。沙代の腹が空であることは、息子を亡くした親の恨み言として、甚壱は受け止めた。
 困ったのは、沙代本人に相対した時だ。
 長く使える見込みがあって、禪院家に関わる者としての躾も済んでいる。弔問にかこつけて出物を見に来た甚壱は、応対に出た沙代を前にして、これが人の妻かと困惑した。
 夫を亡くした女に特有の、見慣れた凄艶さがない。代わりにあるのは、悪意を持って手を引けば、その通りに道を誤りそうな頼りなさだ。見上げてくる瞳の澄んだ様に、娘を拐かしに来たような気まずさを覚えて、甚壱は思わず目をそらした。
 話は既についていたが、最終的な判断は沙代に預けた。沙代の意思で選んだという形を取ることが、沙代と婚家の関係を絶つことに繋がるのは、承知の上だった。

 甚壱は、とっくに読む気のなくなっている本を閉じた。
 沙代のことを囲い者だと思っていないのは、現状を知る中では甚壱ただ一人。沙代の身を慰んだとして、それ見たことかと指を差すのは、禪院家の誰かではなく自分自身だ。
 戸籍の上ではもう、沙代は誰の妻でもない。それでも甚壱の中では、沙代はまだ人の女だった。
 喪が明ける夏まで。
 自分で決めた期限が、近頃とみに重く感じる。深い関わりのない者の一周忌を意識すること自体、おかしなことだった。
 沙代には頼みにできる人も家もない。一つ屋根の下の暮らしで、見咎める者もいない。
 甚壱は文机に肘をつき、額に手を当て頭を支えた。
 冬の寒さはまだいい。いずれ来る繁忙期の昂りの果てに、手を出さない自信が持てなかった。

投稿日:2022年10月19日