三百十六日

 グラスに注いだ麦茶と冷やしたおしぼり。盆の上を確かめた沙代は、甚壱の部屋の前室で膝をついた。甚壱が家に戻るのは久しぶりのことで、冷茶用のグラスはもちろん、籐の茶托とおしぼり置きも、これが今年初めての出番だった。
 夏に向けて襖を取り払った今、部屋の間仕切りは葭戸に替わっている。頬を撫でるのは葭戸の隙間から漏れるクーラーの冷気だ。建具を替えず襖のままにしておいた方が効くのではないかと思うが、座敷と広縁を隔てる雪見障子は替えずにおくよう言った甚壱が知らないはずがなく、何か考えがあってのことだろうと沙代は言わずにいる。甚壱が快適に過ごせているならそれでよかった。
「甚壱さま、お茶をお持ちいたしました」
 返事がなくても開けていいと、甚壱からは言い含められている。念のためしばらく待ってから葭戸を開けると、葭戸越しのものより一層ひやりとした空気が流れ出した。
 沙代は一礼してから顔を上げる。座敷の奥の庭側が甚壱の定位置で、背が高いせいで丸くなりがちな背中が、文机に向かっているせいで余計に丸まっているのが見えた。
 雪見障子の向こうに見える前栽の木々は青々として、庭を挟んで建つ土蔵の壁の白さは日差しの強さを窺わせる。沙代は仕事の妨げにならないよう、いつもに増して慎重に足を運んだ。
 沙代が傍らに膝をつくと、甚壱は書類を片側に寄せてグラスを置く場所を作った。たまたまと考えるには甚壱の日頃の態度は思いやり深く、雇い主の懐の深さにありがたみを感じていた沙代は、ふと思い浮かんだことを否定した。冷房機能を犠牲にしてまで襖を葭戸に替える理由が、なかなかエアコンを使わない自分のためというのは、いくら何でも考えすぎだった。
「失礼いたします」
 グラスを置き、おしぼりを添える。そうして引こうとした手を甚壱に掴まれて、沙代は驚き体を硬くした。
 麦茶の入ったグラスが、書類が、すぐそばにある。
 だが、仮になくとも動けなかっただろう。
 掴まれた手首で感じる手のひらの熱さ。向けられる眼差しに籠められた熱。子供ではないのだ。男の熱望を肌で感じておいて、どうかされましたかと尋ねるほど物知らずではない。
「いいか?」
 甚壱の手に手をすくい上げられて、沙代は窮した。不自然に空いた間で、意図が伝わっていることは伝わってしまっている。力づくで望みを遂げようと思えばできるはずの甚壱が待っている以上、諾否を返さないわけにはいかない。
 夫でもない男とひとつ屋根の下に住む異様さを考えなかったわけではない。それでも一年近くもの間、何事もなく過ごしてきたのだ。今さらということと、欲を欠片も見せなかった甚壱の人徳、どちらを踏まえてもまさかという思いだった。
 沙代は答えあぐねたまま掴まれた手を見つめる。男と女だ。手の大きさの違いは比較するまでもない自明のことだったが、改めて比べると歴然とした差があった。弛みない鍛錬によって堅固さを増した男の手。夫の手はどうだったろうかと、沙代は救いの糸にすがるように唯一知る異性を思い出そうとするが、永別してからまだ一年も経たないというのに記憶はおぼろげだった。
 夫の墓を拝してから、心が軽くなった自覚がある。朝夕冥福を祈る時に感じる、日にち薬で哀しみが薄れてゆくだろう予感。甚壱の気遣いに触れる度に覚えるくすぐったいような嬉しさと、一抹の後ろめたさ。
 甚壱の行動に驚きこそあれど嫌悪感はなかった。こうなることを待ち望んでいた気すらする。なのに貞淑を装って手を握り返すことを躊躇う、自分の半端さが厭わしかった。
「無理にとは言わん」
「……っ!」
 溜め息をつく代わりのように呟いた甚壱が離そうとした手を、沙代は握った。とっさのことだったが、握ってしまった手を離さないのは、確かに沙代の意思だった。
「いいのか?」
 言葉以上の雄弁さで、甚壱の目がこれから起きることを伝えてくる。覚悟を確かめるように掴んでくる手の力の強さに、沙代は心臓を掴まれたように感じた。
 沙代は小さな声で「はい」と答えて頷いた。

 まどろみから抜け出した沙代は体を起こした。布団代わりに掛けられていた着物がするりと落ち、肌寒さを感じて夢現のまま引き寄せる。それから自分の格好に気づいた沙代は、慌てて着物の袖に腕を通した。頬が火照り、一瞬で寒さを忘れた。
 部屋の中を探すまでもなく見つかった甚壱は、沙代が来た時と同じように文机に向かって背を丸めていた。
「……大事ないか?」
「はい、ありがとうございます」
 沙代の覚醒に気づいたらしい甚壱の声が掛かる。沙代は手早く衣服を整えて裾を払い、甚壱の背中に向かって頭を下げた。書類を繰る甚壱はまるでずっとそうしていたかのような居住まいで、脚の間に残る違和感がなければ、おかしな夢を見たと思ったに違いなかった。
「そこにあるのは来月の生活費と給料だ。少し早いが渡しておく」
 聞こえた内容を理解しきれないまま、沙代は畳の上を目で探した。置かれていた封筒を見てやっと意味を捉えたが、封筒はいつも受け取るものより目に見えて分厚い。お中元の送り先がお歳暮と比べて大幅に増えることはないだろうし、時節柄見舞いや供物を用意する機会が増えると言っても限度がある。付け届けや寄進など、準備を任されたことのある何を入れても過分だった。
 聞くは一時の恥。沙代は甚壱の背中を見た。
「こちらは――」 
「俺はまたしばらく戻らん。何をするのも自由だが、戸締まりだけは確かめておけ」
 沙代の疑問を遮って甚壱は言った。
 忙しさから来るものとはどこか違うそっけなさ。甚壱が説明の手間を厭わないと知っている沙代は戸惑いを覚えたが、肌を合わせたことで親しさを感じすぎているのかもしれないと飲み込んだ。一時の慰みの対価。ようやく思い至ったものを入れてもやはり過分だったが、思いつけるものはもう他になかった。
 甚壱のぬくもりを、最中に掛けられた声の優しさを思い出した沙代はじんと熱くなった目を瞑り、最前とは全く別の打ち方をする心臓をなだめながら、再び甚壱の背中に辞儀をした。畳についた指が情けなく震えている。声まで震わせないために深く息を吸った。
「承知いたしました。無事のお戻りをお待ち申し上げております」

   ◇

 物音を聞いた気がした沙代は窓を開ける手を止め、通りに目をやり耳を澄ませた。
 車の音は聞こえず、呼び鈴も鳴らない。梅雨明けを喜ぶ蝉の声だけが聞こえていて、気のせいかと溜め息をつく。
 甚壱は宣言した通り帰る気配がなく、主の不在を知ってか訪客もない。自分一人しかいない家で空耳を聞くのはこのところ頻繁に起きていて、甚壱の「術師の自宅に呪霊が出るようなら終わりだ」という言葉を聞いていなければ、いるはずのない呪霊を想像して怯えていたかもしれなかった。
 町は祇園祭一色だった。明らかに気が滅入っている自分を奮い立たせようと外を歩いてみたものの、街路は陽炎が立たないのが不思議なほどに暑く、その上誰もが目的を持って動いているために却って身の置き所がない心地がした。夫の訃報に始まり押し流されるように過ぎ去った昨夏のことはあまり覚えていないが、一体どう過ごしていたものか。自分だけで生きることにどうしても慣れなかった。
 二階の窓を開け終えて階段を降りる時に、沙代は再び物音を聞いた。
 風船が弾けたような音。間違いなく家の中から聞こえた音だった。
 いるとしたら甚壱だが、沙代が知る限り、甚壱が自分で鍵を開けたことは一度もない。そうでなくとも由来の不明な音だ。不安に思って足を竦ませたが、甚壱が帰ったにしろそうでないにしろ、留守を任されている自分が出ないわけにはいかなかった。泥棒が入ったのだとしたらそれこそ一大事だ。
 泥棒だった場合にどうするという算段もなく、様子を窺うつもりで足音を忍ばせ階段を降りきった沙代は、家の奥側からぬうっと現れた影に肝をつぶした。出るはずの悲鳴も喉につかえて出てこない。
「沙代!」
 後ずさった拍子に足を滑らせたのを、がしりと大きな手に掴まれる。尻もちをつき損なった沙代は腕の主である甚壱の顔を見上げた。驚きが収まらず、悲鳴が出ない代わりに、待ち人来る喜びもすぐには出てこなかった。
「甚壱さま……お帰りなさいませ……」
 早鐘のように打つ胸を押さえ、喘ぎ喘ぎ言う。
「……いたのか」
「はい、おりました。お出迎えできず、申し訳ありません」
「……お前は謝るのが好きだな」
 呆れ顔の甚壱に支えられ、沙代は今すぐ座り込みそうな自分を叱咤し背筋を伸ばす。甚壱は余程暑いのか諸肌脱ぎになっている。沙代は不意に目にした甚壱の筋骨のたくましさに胸をどきどきさせながら、改めて深々と頭を下げた。
 迎えるべき人が通った後だ。玄関の打ち水は後でいい。沙代は自分のすべきことを思い出した。
「すぐにお風呂の支度をしてまいります」
「出て行かなくて良かったのか?」
「はい……?」
 風呂場に向かおうとしていた沙代は甚壱の言った意味が掴めず、向き直りながら首を傾げた。
 自分は構わないが、朝といえども蒸し暑い廊下に甚壱を立たせておくのは忍びない。湯を張るのもクーラーをつけるのも今からになるが、それでも早く涼んでほしかった。十を言われなければ理解できない、自らの愚鈍さが恨めしい。
「逃げる時間はやったろう。金も」
「……!」
 ひと月前に渡された封筒の厚みの理由をようやく理解した沙代は、ただただ目を丸くした。
 なかったことになったのなら、なかったことにする。自らの処世に思うところがないでもなかったが、娘でもないのだし、と深く考えないことにした。それに甚壱との暮らしを気に入っているのだ。追い出されることはあっても自ら出て行くなど、思いもよらなかった。
「申し訳ありません! お返しいたします……!」
「いらん。喪が明けても残るなら着るものでも誂えろ。お前の格好は地味すぎる」
 元から甚壱が渡してくる生活資金は繰り越してばかりだ。余剰を報告しても調整されない上に、甚壱の不在が続けば一層減少が緩やかになるために、結局そっくり金庫に入ることになる。
 食い下がろうとする沙代を放って、甚壱はずんずんと奥に進んでいく。
 甚壱の部屋も風呂も奥にある。着物に腕を通しながら歩く甚壱の背中を追う形になった沙代は、まだ風を通していないのに軽くなった家の空気を不思議に思った。

投稿日:2023年7月16日
これにて完結です。話数は少ないけれども投稿期間は一年近く、お付き合いくださりありがとうございました!
一周忌までにやるかやらないか……まぁやるよな。ということで、我に返った甚壱が逃してやろうとするも、仕方ないが身についた夢主が現状を受け入れ家に残る話になりました。個人的にはグッドエンドです。なまじ夢主の体を知っている甚壱が、うっかり触れたがために冷水シャワーを浴びることになるといいと思います。