仏頂面の理由

「どうかされましたか?」
 蘭太の丸い目が自分の方を向く。つんつんと元気よく跳ねた黒髪の下で、きらきらと輝く大きな瞳。右斜め下、見慣れた角度だ。
 蘭太が今、「俺」と言った。
 覚えたひっかかりの正体は明確だったが、甚壱はそれを口に出さなかった。軽く首を振って前を向き、話を戻す。応える蘭太の声と足音が、笹の葉擦れに混じって心地よく耳に響く。
 甚壱の前で、蘭太は自分を「僕」と呼ぶ。
 本人の篤実さと幼く見える面立ちによく似合う一人称だったが、甚壱は蘭太が「俺」と言ったことに不自然さは感じていない。甚壱だって改まった場では「私」と言うし、年嵩の人間が集まっていれば「僕」で通すこともある。
 躯倶留隊相手でさえ敬語を崩さない蘭太も、同輩と話す時には砕けた話し方をするのだろう。
 思い出すのは、中庭に面した廊下を行く時に、たまたま目にした姿だ。
 庭を挟んだ向こう側で、壁にもたれて片膝を立て、身振り手振りを交えて談笑する。年若い連中に余計な気を使わせないように気配を隠して通り過ぎた甚壱は、蘭太の気負いのない笑い声を初めて聞いた。
 甚壱は打ち解けられたいと思わないでもなかったが、楽にするよう薦めるのは慣例程度にして、しつこくは言わないようにしている。蘭太の側からすればオンオフの切り替えの必要がないという意味で楽であろうし、誰に見られることもない場所にいるときは、それなりに気を抜いた様子も見せる。
 今の「俺」は無意識だろう。
 些細なことに浮かれすぎていると思いながら、甚壱は緩みそうになる口元を引き締めた。

投稿日:2022年8月27日