一度だけ

 どうしてと聞かれて初めて、甚壱は選択の理由の言語化を試みた。熟慮する性格だと自認していたが、蘭太に抱かれることを承諾したのは考えた結果ではなく、直感的に構わないと思ってのことだった。
 自分の肉体にそういった意味での価値を見出したことがない。男なら誰だってそうだろう。あると知らなかった、今もまだ存在を実感できないものを欲せられて、何を惜しむというのか。
 浮かんだ理由をそのまま蘭太に聞かせるのは、どうにも不適格に思えて、甚壱はさらに言葉を探した。蘭太は床を共にすることを、甚壱の大事として扱っているのだ。いくら己がそう思っていなくとも、価値を下げるような発言は慎むべきだった。
「……この歳になると新しいことを始めるのが億劫になる。だが、お前が望むのならしてもいい。……そう思った」
 元々大きな目をさらに大きく見張って、蘭太は甚壱を見る。
「……甚壱さん……」
 蘭太は甚壱の名前を呼ぶだけ呼んで、その後を続けられないまま口を閉ざし、ごくりと空唾を飲んだ。
 布団を敷いた部屋に蘭太を招き入れた時点で、抱かれる以外の選択肢は消えている。そうすることを望んだ側が何を躊躇うのかと疑問に思いながら、甚壱は蘭太が思考を言葉に変えるのを待つ。あまりの静けさに、遠くの部屋の時計の鐘がひとつ、鳴るのが聞こえた。
「……したこと、ないんですか」
 鐘の音に背を押されたように、甚壱を見据えた蘭太は、掠れた声で言った。
 向けられた瞳に宿る熱は、術式を発動した時とはまた違うものだ。甚壱はぞわりと背中を走った怖気のようなものを、正体を確かめることなく腹の奥に沈めた。蘭太に向けられる感情について、思い浮かんでくる名称を認識してしまわないよう、思考をあえて散らす。
 答えを返さない甚壱に対し、蘭太は深々と頭を下げる。
「ありがとうございます」
 黙って頷いた甚壱は、蘭太のつむじから視線をそらした。
 締め切った障子は、畳の上に据えた明かりを吸い込んで、ぼんやりと白く光っている。鐘の余韻は既に消え、外も内も、物音ひとつしない。夜ではあったが、日付が変わるのはまだ先だった。
「……始めるか」
「はい。よろしくお願いします」

投稿日:2022年3月22日