寝起き

「何も見てません!」
 言うが早いか、蘭太は音を立てて襖を締めた。
 慌て切った声は見たと言ったようなもので、快活で嘘がないところは間違いなく蘭太の美点だったが、世を渡っていくためにもう少し分かりにくくなって欲しい。甚壱が吐いた溜め息は、起き抜けなせいで余計に深々としたものになった。
「蘭太」
 甚壱は布団を出て立ち上がり、襖を開けた。
 襖を閉めたものの、用があって来たのだから立ち去るわけにはいかなかったのだろう。握りこぶしを膝に置き、進退窮まった様子で次の間に座っていた蘭太はそろりと顔を上げた。動揺の名残か、見上げる瞳がかすかに揺れている。
「誰もいない。俺だけだ」
「は、はい」
「暑がりでな。毎度脱いでいるからいっそ裸で寝ようと思ったこともある。だらしないところを見せた」
「いえ!」
 寝間着の衿を整えた甚壱が反省を込めて言うと、蘭太はぶんぶんと首を振った。早とちりをしたことが余程恥ずかしかったのか、まるで女の裸を見たように顔を赤くしている。
「全然! 平気です!」
「そうか?」
「はい」
 落ち着いたのか、深く頷いた蘭太はきりりと唇を結んで顔を上げる。そのまま報告を始めそうな様子に、甚壱は片手で襖の隙間を広げた。
「中で聞こう」
 振り返ると目に入る抜け出した形の布団に間の悪さを感じるが、明け方まで出ていたのだ、寝坊と合わせて大目に見られたい気持ちがあった。甚壱は構うまいと割り切って、乱れた布団を打ちやり畳に腰を下ろした。
「蘭太?」
 着いて入ったと思いきや、蘭太はまだ戸口に座っていた。
 部屋の明かりは点けている。言い訳をするまでもなく、甚壱以外誰もいないことは一目瞭然だ。布団を上げていない状態は見るからに寝起きだが、甚壱が広間やトレーニングルームに現れるのを待たずに部屋まで訪ねてきておいて、今さら何を遠慮することがあるというのか。
 甚壱が首を傾げると、蘭太は両手を前についた。
「出直してきます! 急ぎではありません! 甚壱さん御朝食もまだですよね」
「込み入った話か?」
「いえ」
 口早に言いながら立ち上がろうとしていた蘭太は、疑問が解消できず訝しげな顔をしている甚壱の方を見ると、説明不足に気づいたのだろう、気まずそうな顔をした。
 まさか驚いた拍子に用件が飛んでしまったのだろうか。
 甚壱はどぎまぎしている蘭太から柱時計に目を移した。普段の甚壱を知る者なら寝ているとは思わない時間だった。
「……食堂で聞こう。先に行っていろ」
「はい!」
 安堵もあらわに蘭太は頷いた。
 甚壱はその様子から「用件を忘れたらしい」という自分の想像に確信を持った。事情が分かってみれば蘭太の様子のおかしさは微笑ましく、ささいな失敗を恥と感じる若さに温かい気持ちになる。
 高らかな「失礼しました」という声と共に、今度はそっと襖が閉められる。廊下に面した障子を開閉する音はしなかったのに、勢いよく駆けて行く足音は甚壱の耳にはっきりと届いた。
 そつがないのかそそっかしいのか。
 甚壱はまだ胸に残る温かさを感じながら、取り残されたように静かな部屋の中で、蘭太の足音が消えた方角を見て苦笑した。

投稿日:2023年6月2日