夏のスライム

蘭太が子供の頃の話

 いつの間にか蝉の声がやんでいた。今しがた抜けてきた庭を振り返った蘭太は、降り注ぐ強い日差しに目を細めた。逃げるように植栽の中に入り込む。庭から入るのは無作法かと思ったが、来やすいようにと道を教えてもらったのだから構わないだろうと思い直す。
 甚壱の部屋の前まで来た蘭太は、運んできたバケツに目を落とした。中身は寝かせて気泡を抜いたスライムだ。水を多めに入れ、色を付けずに透明のままにしたから、ただの水を運んでいるようにも見える。触るとひんやりしていて気持ちがいい。是非とも甚壱に見せたかった。
「甚壱さんっ、蘭太です!」
 蘭太は閉められた簾戸越しに声を掛けた。簾戸は外から部屋の中の様子は分からないが、障子と違い中から外はそれなりに見える。甚壱が在室している場合、あまりそわそわしていては恥ずかしいと分かっているものの、声が聞こえたかどうかはどうしたって気になる。蘭太は足元の踏み石を見ながら、気を紛らわせるためにバケツの持ち手を握り直した。
「どうした?」
 すっと簾戸が開いて甚壱が姿を見せると、蘭太はぱっと顔を輝かせた。
「甚壱さん、お時間いいですか?」
「ああ」
「甚壱さんに見てほしくて……あっ、当てっこしましょう!」
 蘭太はバケツを背中に回す。縁側に腰を下ろす甚壱に「見ました?」と小首を傾げて問いかけ、甚壱が首を横に振ったのを見て「よかった」と笑う。自分の体で隠れるようにバケツをかばいながら甚壱の隣に腰掛ける。
「こっちを見ないでくださいね」
「ああ」
 まっすぐ前を向いている甚壱の、あぐらをかいた腿の上に置かれた肘を引き、手を取る。
「蘭太の手か?」
「もう! まだです!」
 探るように触ってくる手をぺちんと叩いてから自分の膝の上に乗せ、持ち上げたバケツを股に挟む。それから傾けたバケツの中に甚壱の手を導いた。
「いいですよ」
「……冷たい」
「はい」
「今触っているものでいいか? それともこの中にまだ何かあるのか?」
「今触ってるものです」
「食い物か?」
「違います。食べ物では遊びません」
「いい子だ」
「おかげさまで」
 からかいを含んだ口調に形だけの礼を言った蘭太は、答えを言い当てるまで甚壱が自分を見ないことに気づいて、甚壱の横顔を見上げた。逞しい骨格に見合ったがっしりとした顎、黒々とした眉の下にある理知的な目。日の当たる場所に出たからか、髪の生え際に滲んだ汗に見とれていた蘭太は、
「……保冷剤か? すまないが分からない」
 という甚壱の声に引き戻された。
「あ、はい!」
「保冷剤?」
「ごめんなさい、たぶん甚壱さんが知らないものです。……スライムです」
「いいや、スライムは知っている。また懐かしいものを……」
 甚壱に見せるために、蘭太はバケツの中からスライムをすくい上げた。バケツを置いて両手で支えると、粘性の高い透明の液体がひやりと手の上に広がっていく。甚壱は蘭太が差し出したスライムを、ねとりとした感触を確かめるように触れてから指を擦り合わせ、納得しかねるような顔をする。
「変なもの触らせてすみません。暑いから気持ちいいかと思って」
「構わん。……透明なんだな」
「置いておくと透明になるんです。空気が入ると濁ってきちゃうので、最初はもっと水みたいだったんですけど。あ……ちょっと溶けてきちゃった。べたべたします」
 暑いせいかまとわり付くようになってきたスライムを手から離すべく、蘭太は手を擦った。泡立って透明度が下がるのは失敗ではないものの、一番見せたい状態ではないし、甚壱にじっと見られるのは何やら気まずい。
「甚壱さんの手、汚れませんでしたか? 手ぬぐいありますよ」
「俺の部屋はすぐそこだ」
「そうでした」
 気をそらしたくて話しかけたが、早々に無意味になった。手についたスライムの断片をバケツに戻すと、蘭太は終わったことを示すために甚壱に笑いかけた。すんなり片付けられなかったことへの照れ隠しも若干入っている。
「……上がっていけ。茶か水くらいしかないが」
「いいえ!」
 膝を立てて立ち上がった甚壱に、蘭太は首を振った。ぴょんと縁側から飛び降りる。
「見せに来ただけなのでお暇します。お仕事お邪魔しました」
「そうか。俺も良い息抜きになった」
「ありがとうございます」
 ぺこりと頭を下げた蘭太は、行きかけてから振り向いた。
「手を洗ってくださいね!」
 片手を上げた甚壱に手を振り返し、蘭太は行きとは逆戻りに木立の方を目指した。

投稿日:2021年7月24日
禪院家はクーラーなさそう。