悪気はない

「嫁をもらう気はないか?」
 形ばかりの前置きもそこそこに、直毘人はずばりと切り出した。
 先代当主を父に持つとはいえ、次に選ばれることはまずない。新しく当主となった直毘人の元、どうにか落ち着いてきた禪院家の足元を揺らがせる気はさらさらなく、その割にまとわりついてくる他者の思惑から逃れるべく家を出た甚壱は、禪院家の主屋には特段の用がない限り足を踏み入れなかった。直毘人は会う度に使いを出す手間を重大な面倒であるように言うが、逆に言えばその程度の問題しかないということだ。
「……ありません」
 禪院家当主としての問いか、叔父としての問いか。甚壱は直毘人の立ち位置の判断がつかないまま、ひとまず当主に対する答えを返した。礼儀を損ねてまで直毘人の目を見たのは、理由は分かっているだろうという意を込めるためだ。
 直毘人は口髭をひねる手を止め、我が意を得たりとばかりに口角を引き上げた。
「なら一人か二人、俺の子を引き受けんか?」
「……」
「名前だけでいいが、収まりが気になるなら下から選べ。他にあてがあるなら無理にとは言わん」
 長子相続というのは甚壱が生まれるより前の文化だったが、甚壱自身は父の財産をそっくりもらった。父を同じくする弟から異論が出ない理由は誰も彼もが理解している。
 自分の所有物をどうするかなど直毘人の勝手だが、ここで一枚噛むことを承諾すれば、相続税対策の枠を超えたごたごたに巻き込まれることは必至だった。それは、できうる限り避けたい。
 後日の返事を約束した甚壱は、断ることが分かった上で酒に誘う直毘人に辞意を伝え、障子を透かした日差しに満ちている割に寒々しい部屋を後にした。
 当主の部屋へと続く長い廊下は、今直毘人がいる部屋を父の部屋として訪ねていた頃から変わらない。甚壱は踏めば大きく軋む箇所――もしかすると修繕済みかもしれないが――を避けて、一番早く外に出られる路を行く。案内はない。行きも帰りも一人で歩けるのは直毘人の計らいだ。
 かつての甚壱はただひたすらに厳しい実父に比べておもしろさのある叔父のことを好いていたが、いざ当主として仰ぐとなると、掴みどころがなさすぎて辟易する。扇ほどの四角四面は望まないが、もう少し意図が読みやすくあってほしい。酒精に浸っていても爛々と光る目の奥。主題となった養子の斡旋とは別に、もう一つくらい含むものがあったように思う。
 甚壱は梯子段が渡された廊下の端に着くと、土の上に残していた草履に足を入れた。植栽の向こうを確かめてから庭を横切り、表に繋がる木戸をくぐる。行状を見咎められたのは昔の話で、今の甚壱を叱るのは扇くらいなものだが、気を付けておくに越したことはない。
 延々と続く塀に沿って歩いていた甚壱は、階段が現れたところで溜め息を吐いた。何度通っても面倒な道で、この時ばかりは家を出たことが悔やまれた。

   ◇

「俺の養子にならないか?」
「それってもしかしてプロポーズですか?」
 酒まんじゅうを飲み込んだ蘭太は、プロポーズではないことを分かっている口調で言った。甚壱と話す時に、こうもあからさまに好意を示すのは蘭太くらいなものだ。最初は面食らった甚壱も、近頃では扱いに慣れてきた。
 甚壱はゆるりと首を振る。
「残念だが、プロポーズではない」
 ふんふん、と頷いた蘭太は二つ目のまんじゅうを手に取り、甚壱の顔を見ながら頬張る。他に言うことはありませんか、とことわざの例示のように雄弁に語りかけてくる瞳を、ないという思いを込めて見つめ返す。伝わったのか伝わっていないのか、蘭太は子細ありげに眉を上げると、湯呑みを取り上げた。
「養子縁組ですか……別に構いませんけど……」
 蘭太は湯呑みを片手に庭を見た。
 呼ぶ必要がないくらい頻繁に家に来るのだ。常緑樹ばかりの庭に、改めて見るべきものがあるとは思えない。甚壱は分かりやすく考えている蘭太を見ながら、自分も湯呑みに手を伸ばした。一人の時は水で済ませている。近頃は長座する客もなく、茶はほとんど蘭太専用になっていた。
「俺が先に死んだ時の仕切り、甚壱さんにお願いしてもいいですか?」
「……縁起の悪いことを言うな」
「親がやるのが筋だと思いますが、甚壱さんが入ってくださるならその方が早いです。俺のお金なんて誰もあてにしていないでしょうし、書くものも書いておきますけど」
「話を聞け」
「実はこう見えてモテるんですよ。お話をいただくのは二回目です」
 甚壱の抗議をすっかり無視した蘭太は、何の曇りもない顔で、養い親が他にもいることを明かした。二本立てた指は数を示しているのか、モテることをひけらかす意味合いなのか判断が難しい。
 こう見えても何も、蘭太というのは妥当かつ穏当な選択だ。他にも同じ考えの人間がいることに別段の不思議はない。
 そう頭で理解しつつも、甚壱は顔をしかめた。蘭太が妙な言い方をしたおかげで、最初に聞いた「プロポーズ」という言葉が気に掛かる。同性同士の交際で、養子縁組を婚姻代わりにするというのは蘭太から聞いた話だ。本来の用途を蘭太はどういう心持ちで受けるのか。ここは蘭太の言う通りプロポーズとして事を運ぶべきだったのか。
 甚壱が眉間の皺を深めている間に、蘭太は三つ目のまんじゅうに手を付けた。やはり庭を見たのはただのポーズだったらしく、酒まんじゅうを見ている方がよほど真剣に見える。
「……俺の知っている相手か?」
 他所で出た時に気に入っているように見えたから、呼ぶと決めた時に買いに行かせたが、そんなに美味いのだろうか。
 試みに酒まんじゅうを手に取った甚壱は、重みとして伝わってきた餡の量に早くも後悔した。二つに割ってみても餡がぎっしり詰まっているという視覚情報が増えただけで、状況は好転していない。
「甚壱さんが知らない禪院家の人間って誰ですか」
 蘭太の笑い声を聞きながら、甚壱は仕方なく、割ったまんじゅうの片方を口に入れる。恐れていたほど甘くはなかったが、一息に食う気にはなれない。
 甚壱はむぐむぐと咀嚼しながら湯呑みに手を伸ばす。
「……俺より年上か?」
「あまり絞れませんよ、それ」
「男か、女か」
「回りくどい聞き方しないでください。普通に教えますよ」
「……いや、いい」
 喉に残る甘さを茶で飲み下した甚壱は溜め息をついた。禪院家から離れて暮らしているとこういう時に困る。蘭太を取り巻く人間関係が分からない。度々持ち込んでくる土産と、出てくる名前から察する程度だ。
「残り、いただきます」
 甚壱は伸ばされた手にまんじゅうの片割れを託した。蘭太がまんじゅうを次々に食べているのは、残しておいても誰も食べないと分かっているからかもしれない。どうして食べたんですか、とからかいを含んで向けられる目を、うるさいと睨み返す。
「……見合いの話が来た」
「へえ」
 寝耳に水だったらしい。
 蘭太は半端に笑みを残したまま目を泳がせて、先とは違う様子で茶を口にした。ゆっくりと瞬いてから戻された眼差しから読み取った寂しさは、自惚れが見せた幻覚だろうか。
「いいじゃありませんか。俺は甚壱さんは子供を作るべきだと思います。もったいないです」
「本心か?」
「本心です。……あーあ、甚壱さんが俺の希望だったのに。甚壱さんが結婚しないなら俺もしなくていいと思ったのに」
 冗談めかして言った蘭太は甚壱の目を見なかった。
 はっきりと聞いたことはなかったが、自分のような男を好きになる男が、同じ熱を女に向けられるかというと、可能性は低い気がした。
「すると決まった訳じゃない。顔も知らない相手だ」
「お会いにはなるんでしょう?」
「当主経由で来た話だ。会わない訳にはいかない」
 養子縁組に関する甚壱の返事を待たず、嫁に怒られたと直毘人は言ってきた。おざなりに流された嫁取りの方が本題だったのだ。男といえども適齢期はある。今さら見合い話を持ち込まれると思っていなかったからまさかだった。
「もう一つ。相手は子持ちだ。俺が子供を作る必要はない」
「……なんですか、それ」
 蘭太は丸い目をさらに丸くして、呟くように言った。動揺を悟られないために目を合わせないようにしていたことを忘れたのか、じっと甚壱を見てくる。
「だから話をしたんだ、蘭太」
 蘭太が向けているものと同質ではないというだけで、甚壱は蘭太のことを好きだった。好意を告げられたのを機に心を探って出てきたのは、才気ある若者を好ましく思う普遍的な気持ちから、ひとつ踏み込んだ感情だ。下手な返事をして自分の元を去らせるのは惜しい。報いてやりたいという取り繕った名目で、横車を押すことに躊躇いはなかった。
 蘭太は大きな溜め息をついた。非難がましい目を甚壱に向ける。
「完全に面倒事じゃないですか」
「その通りだ」
「俺の気持ちを安く見すぎです。割に合いません。その条件なら生きている甚壱さんを付けてください」
「構わない」
「え」
「望みに付き合おう。先払いだ」
 蘭太は「え」と言った口のまま甚壱を見ていたが、口を閉じがてら笑おうとして、作り切れなかった表情を隠すように下を向いた。
「受け取れません。俺がほしいものはそういうんじゃないんです。……そうではないんです」
 膝の上に置かれた手が未練を断ち切るようにぎゅっと握られるのを見て、甚壱は口元を緩めた。交渉めいたことをしようにも、蘭太は根本的に人が良いのだ。
「どうせ流れる。俺の独り身は年季が入っているからな」
 ぱっと顔を上げた蘭太は、素直にほっとした顔をした。一人相撲を取らされたとは露ほども思わない。甚壱が見合いを形だけで済ませると信じているし、甚壱が出した情報全てが真だと思っている。蘭太が人を疑えるような性質なら、甚壱はとっくに手放してやれていた。
「養子の話は考えておいてくれ。面倒のないようにしておく」
「最初からそう言ってください。心臓に悪いです。ただでさえ甚壱さんに会う時はドキドキしてるんですから」
「人の家でまんじゅうを完食するやつがよく言う」
「動かした分を補わないと。やつれて帰ったら甚壱さんが疑われますよ。俺、甚壱さんの家に行くって言って出てきてますから」

投稿日:2024年3月9日
いつものことながら結末を決めずに書き始めたら薄暗い執着みたいなものが出てきてしまい、ラストで軽くなったので助かりました。