Mehndi

 女神アテナの降誕と、冥王ハーデスの覚醒。その二つは不可分の関係にある。
 真贋はさておき、アテナが降誕した十六年前を機に、聖域における冥界への警戒態勢は一層厳しいものとなっていた。その指揮にあたっていた教皇が偽者だったとなれば、対応の正否を問いなおす必要が生じるのは当然の流れだろう。この度の大逆、その総てをサガ一人の欲から生じたものだと断じるには、不明瞭な点が多すぎた。聖域を、ひいては地上を崩壊へと導くための布石が打たれていたとしたならば、一刻も早く除かなければならない。
 黄金聖闘士全員が顔を突き合わせて話し合うという前代未聞の会合は、深更を超え、金鶏が鳴く頃になってようやく、ひとまずの決着をみた。話された内容、払われた労力、出された結論、どれを取っても掛かった時間に見合うものではなかったが、各地への派遣の段取りがついただけでも、進展があったと考えるべきだった。主導者たる教皇も、次代にと指名された者も既に亡い。会合に参加した誰もが、物別れに終わる可能性を考えていたのだ。

 全員が守護宮を空けるという都合上、会合は第一の宮である白羊宮で行われた。
 ムウが提供した一室を出た先、白羊宮の象徴ともいえるクリスタルの柱が配された広間には、徹夜明けの目には眩しすぎる光が燦々と降り注いでいた。
「これはつらいな!」
 大仰なジェスチャーと共に、アルデバランが言い放つ。ただ眩しさを除けるためだけではない、険しいものを目元に浮かべていた面々は、毒気を抜かれたように息をついた。
「ムウ、すまなかったな。部屋を借りたばかりか、いらぬ手間まで掛けさせた」
「何かできればよかったのだが……。疲れているのはお前も同じだったろう」
「いいえ、私が好きでしたことです」
 ミロがムウを労い、アイオリアがそれに続く。ゆるやかに首を振ったムウの肩に、アルデバランが手を置いた。自然、向けられたミロとアイオリア二人の目に向かって、鷹揚に頷く。
「ムウの淹れる茶はうまいだろう? あれを飲むと腹が減るのだ」
「アルデバラン……」
 困ったような顔をしたムウがアルデバランを見上げたところで、金牛宮へと続く扉に向かいかけていたシュラが、思い出したように振り返る。
「今度は酒ありで集まろうぜ」
 同調しないながら拒否もしないそれぞれの顔を見て、我が意を得たりとばかりに笑った。

 仮眠が終わるタイミングを見計らったように訪ねてきたシャカと、アイオリアは対峙していた。獅子宮の広間で、互いに黄金聖衣を纏った状態でのそれは、いつかの再現のようでもある。アイオリアにとってもシャカにとってもまるで意味のない二歩分の間合いは、アイオリアが階段を降り切るのを待ってから歩みを進めたシャカが作ったものだ。
「此度の任務、サガの痕跡に触れる可能性がある以上、対策を講じた方がいいでしょう」
「……同じ轍を踏むつもりはない」
「私は君を侮って言うわけではありません。君がそう思うのならばこそ、万全を期す必要があります」
 サガの手による洗脳を受けたアイオリアは、何の関わりも持たない人間よりも、サガの小宇宙に呼応しやすくなっている。死後に思念体として聖衣に宿り後続を援護するような、聖闘士の間でまことしやかに語られる話とは逆の、呪詛となって一帯を禁足地と買えるような性質の悪いもの。残留したサガの負の思念、もしくはサガが道を踏み外すに至るきっかけに触れることがあれば、引きずられる可能性は他者よりも高い。
 シャカが淡々と語った懸念は、あくまで推論だ。撥ねつけることはできる。アイオリアを踏み止まらせたのは、サガの術にかかりアテナの道を阻むことになった原因の一端が、他者の助力を求めなかったことにある、という自認だった。
「……どうしろと言うのだ」
 聞いてしまえば、乗ることになる。シャカが出てきたということはそういうことだ。
 間合いは詰めないままで、アイオリアはシャカの返答を待った。

「道は通るものがなければ薄くなる。特別の処置が必要なのは今回くらいでしょう」
 アイオリアの背中に色を置いていきながら、シャカは言った。小宇宙を高めるため、と常に閉ざしていながらも、何一つ不自由のなさそうに振る舞うシャカの視界がどのようになっているのか想像もつかないが、紋様を描いていくその手は、水の流れを追うように滑らかに動く。
 魔除けのまじない――今施しているものは、平たく言えばそういうものだという。
 ベッドに腹ばいになったアイオリアは、枕元に置いていた紙を手に取った。「具体的にどういうものなのだ」と問うアイオリアに、シャカが描いてみせたものだ。そこに描かれた紋様は、聖域に存在する図柄や文字のどれとも似ていない。誰も口にしないが、シャカのあり方はアテナを信奉する聖域においては特異なものだ。
 手にしていた紙を置いて、アイオリアは目元を腕に擦りつけた。ベッドに寝そべっているせいで、払ったはずの眠気が呼び戻されていた。間近に感じるシャカの体温と、焚かれた香の香りがそれを助長している。今眠るわけにはいかなかった。
「……効果はどれほど持つのだ?」
「色が残っている間は確実に。少なくとも此度の任務中に切れることはありません。本来ならばアテナのお力をお借りするのが一番ですが、あの様子では……」
「シャカ」
「分かっています」
 アテナ――城戸沙織は今、聖域にいない。これまで通りの暮らしを営みつつ、護衛として同行する青銅聖闘士の協力のもとでゲートを開き聖域を訪れる、という二重生活を送っている。
 アテナの小宇宙を宿している。聖域を護るという意志もある。それでも、文献にあるようなアテナとしての自我に目覚めてはいない。――帰還を果たした際の演説で、彼女自身の口から明らかにしてしまっていたが、現在もその状態が継続していることは、黄金聖闘士と青銅五名しか知らないトップシークレットだ。城戸沙織がアテナであるということに疑いを挟む余地はなかったが、神性の発現が完全ではないと知って、叛心を持つ者が現れないとは限らない。何せ偽の教皇であったサガの治世は、アイオロスの一件があってもなお、真のアテナが来訪したその時まで、表立った混乱が何一つない秩序が保たれた状態にあったのだ。誰もがサガのことを覚えている今、発言には慎重になるべきだった。
 アイオリアは息を吐いた。溜め息か、あくびを噛み殺したのか、自分でも分からなかった。
「アイオリア」
「……なんだ」
「眠いのならば眠ってしまいなさい。どうせ乾くまではこのままです」
「それはできん。もうすぐ、お前の寝る時間だろう」
 アイオリアは顔を横向けた。壁際に置かれた蝋燭の火が目に映り、眩しさに少しだけ眠気が遠ざかる。
 程度は人によったが、黄金聖闘士全員で話し合う時間を設けるために、本来の活動時間に変更が生じていた。削られた分の睡眠は、交替で仮眠を取ることで補うことになっている。太陽光が断たれている上に、体内時計に変調をきたした状態では時間の感覚が曖昧になっていたが、もうそろそろ、シャカに割り当てられた時刻になるはずだった。
「肉体の活動など、私にとっては大きな違いでありません。どのみち君はこの場を動けないのだ。それなら眠っていても同じことでしょう」
「む……」
 シャカの姿を求めようとしたアイオリアの目を塞ぐように、シャカの手が置かれる。聖衣に包まれていない指先は、生身だというのに、陶器に触れたような涼やかさがあった。
「眠りなさい、アイオリア。ここには君を脅かすものは何もない」

投稿日:2014年8月16日