三百十六日
1
人は冬に死にやすいと言うが、呪術師はそうではなかった。
非術師に比して平均寿命が短いせいか、冬場の死者はむしろ少なく、夏季に水難事故が増えるように、呪霊の増加と共に鬼籍に入る術師の数も増えていく。
沙代の夫もその一人だった。
非術師の目には変死であっても、術師の目には呪霊による死であることが明らかであったために、遺体の引き渡しは早かった。
折しも繁忙期の真っ最中、葬儀の参列者は少ない。婚礼の折に顔を合わせた親族すらまばらにしか見られない中で、台所に詰める女の数ばかりが揃っているのが奇妙ですらある。
結婚して三年が経つというのに、突然の訃報に混乱しているという言い訳を躊躇うほど、沙代は夫の交友関係を知らなかった。葬儀のことなど右も左も分からないのに、故人の妻である、ただそれだけの理由で棺の脇に座った沙代は、誰とも分からない相手に頭を下げ続けていた。
◇
「俺のところに来ないか」
甚壱の言葉に沙代は目を見張った。
そもそも甚壱が、夫の弔問に現れたというところから驚きだったのだ。夫の交友関係を知らないというのは禪院家の外のことで、家の中のことであれば望むと望まざるにかかわらず耳に挟む。灯であり、系譜も年齢も近いとは言えない夫が、禪院家の中で重要な位置にある甚壱と、自分の亡き後を頼めるほどのよしみを結んでいたとは思えない。
慎みを忘れて甚壱の顔を見ていた沙代は、甚壱が目をそらしたところでやっと我に返り、目を伏せた。頼るべき夫がいない心細さと、長過ぎる沈黙。今が盛りとばかりに鳴く蝉の声が、かえって沙代を急き立てる。
「すまない、言葉が足りなかった」
「……!」
あまりに素直に出された詫びの言葉に、沙代は俯いたまま瞠目した。人柄に言及できるほど甚壱のことを知らなかったが、やすやすと詫びを口にするイメージはない。それは禪院家の男全般に言えることで、自らに非があると認めることが、品位を失わせると思っているとすら感じられる。沙代は自分の夫が、他の男が、そして時には女までもが、謝罪を受けて勝ち誇ったような顔をするのを見ていた。
「女手が欲しい。平たく言えば家政婦だ。親の代からのがいるんだが、もう無理が利かないと暇乞いをされている」
沙代の反応を見るように言葉を切った甚壱は、舅の名前を挙げて「話は通してある」と付け足した。
「……もったいないお話にございます」
沙代は畳に指先をついて頭を下げた。
夫との縁談は、次子である弟に家督を譲ると決めた父が手を尽くしてまとめたものだ。仲人の威光の残照か、婚家は帰る家のない沙代に選択権を与えたが、子供のいない身で禪院家に残る居づらさは想像に難くない。四十九日は身の振り方を決める猶予期間でもあった。新たにできた選択肢はありがたかったが、渡りに船と喜べるほど単純な話ではない。
「返事は今でなくていい。考えておいてくれ」
甚壱が立ち上がる気配を感じて、沙代は慌てて爪先を立てた。
前を歩く広い背中。迷いのない足の運び。粗野に見える容貌に似合わず、甚壱の動きは静かで無駄がなかった。
沙代は雪の中にあっても長着に素足の甚壱を見たことがあった。その甚壱が、この暑い中に羽織を着ている。一つ紋の入った絽の羽織。弔問のためと考えるのが自然だったが、夫と甚壱の間に、それほどの付き合いがあったのだろうか。
夫のこと、婚家のこと、実家のこと、禪院家のこと――そして、甚壱のこと。
沙代が何の答えも出せないうちに、甚壱が境界で立ち止まる。
「ここでいい」
「承知いたしました」
沙代は礼を失することがないよう謝辞を述べ、深々と腰を折った。
◇
沙代は甚壱の自宅が禪院家の敷地の外にあることを、案内されるまで知らなかった。運転手が言った「観光に便利な場所ですよ」というのは冗談ではなく、大塀造の家の門を一歩外に出ると、隔絶された禪院家では見ることのない「普通の人」の暮らしが目に飛び込んで来る。迎えに出た老女は甚壱から聞いていたよりもかくしゃくとしていたが、身を引くというのは間違いではないらしい。動けるうちにやりたいことがあると聞いて、人に言われるまま生きているのは自分だけなのだ、と一抹の寂しさを覚えた。
甚壱の元で働くと決めた時、一周忌も、初盆も、その後も、来なくていいと姑から言われている。夫を愛していたかは分からないが、共に暮らした長さの分だけ喪失感はあった。仕方なく、毎朝夕、かつての家の方角に手を合わせる。誰も縁者がいないことに不安はあったが、いざ働き始めると、給金が得られるだけ待遇がよくなったような気もした。
繁忙期の間、甚壱は禪院家本邸に泊まることが多いようだった。それでもいつ帰ってきてもいいように食事を作り、部屋を整える。沙代は蝉の声が聞こえなくなってきたことよりも、甚壱が帰る日が増えてきたことに、夏の終わりを感じていた。
◇
「少しは慣れたか?」
「はい」
甚壱に問われた沙代は控えめに頷いた。
建具替えを終えた部屋には、今しがた淹れた番茶の燻したような匂いが漂っている。障子越しに聞こえる虫の音は、禪院家で聞くものよりもささやかだ。
当然と言えば当然だが、肌寒さを感じる日でも羽織を着ない甚壱は、当分単衣で通すつもりらしい。洗濯は他所よりも楽ができると言った先達の言葉を思い出す。なるほど、袷の出番が少ないなら洗い張りも少なくて済む。
沙代が退出しようと膝を上げたところを、甚壱が「沙代」と呼び止める。
顔を向けると、視線がかち合った。威圧感とは別種の何か。心臓を掴まれたような心地。
沙代は瞬いてから目を伏せた。盆を脇に置き、手をついて、畳を見つめる。
「なにか、至らぬことがございましたでしょうか」
甚壱の溜め息が聞こえた。甚壱から叱責されたことはないというのに、何かを言い出そうとする間を恐ろしいと感じる。理由を思い出さないよう、沙代は自分の呼吸を数えた。
「……酒を」
「はい」
「盃は二つだ。付き合え」
「……はい」
酌をするより先に徳利を取り上げられ、盃を持つよう促される。両手で受けているというのに波立つ水面に、情けない思いが募る。一礼して、飲み干して、再び一礼する。味は分からなかった。
「そんなに俺が怖いか」
呆れているのだと分かる声で、甚壱は言った。
「俺のところに来たのはお前の意思だと思ったが、違ったか?」
「私の意思です。甚壱さまには大変なご厚情を賜り――」
「……今から一切視線を下げるな」
沙代が頭を垂れようとした矢先、甚壱が言い放った。
目を見開いて硬直した沙代を見て、甚壱は気の毒なものを見るような顔をした。顎をさすり、目を泳がせる。
「瞬きはしていいし、体も楽にしていい。一つ尋ねるだけだ。尋問しようという訳じゃないが、面倒になるから嘘はつくな」
盃を置いた甚壱はのっそりと立ち上がり、一畳の対角分向こうに行って腰を下ろした。
「ここでどうだ。お前を殴るにはひと手間かかる」
「……あ……はい」
「いいか?」
一体何を始めようというのか、甚壱はわざとらしいほど大仰に首を傾げた。沙代も釣られて大きく頷く。そのせいで、飲み慣れない酒がくらりと頭に回った感じがする。
「子供が産めないというのは本当か?」
沙代は無造作に投げられた問いに息を呑んだ。表情を隠すために顔を伏せようとして、視線を下げるなと言われたのをかろうじて思い出す。
答えを絞り出そうとして、戸惑う。三年間、今は亡き夫と夫婦として生活してきた。その間に子供ができなかったのは本当だが、産めないのかと問われると分からない。
「……分かりません」
「そうか」
甚壱はあっさり頷いた。
「分からないなら分からないでいい」
立ち上がった甚壱は沙代の元まで歩いてくると、腰を屈めて徳利を拾い上げた。目顔で沙代に飲むかと尋ね、沙代が首を振ると、自分の盃と共に先に座っていた場所まで戻る。
「俺は独り身だが見合いの伝手くらいはある。動くのは喪が明けてからになるが、その様子だ、先に知っておいた方が気が楽だろう」
「え……」
「行くあてがないなら丁度いいと思ったんだが、熊の檻にいるような顔をされると俺もつまらん。まだ半年以上あるが、辛抱してくれ」
つまらないと言った甚壱の顔が、心なしか拗ねた子供のように見えた。
甚壱が帰ってくるようになり、玄関を清める意味を、空になった食器を下げる嬉しさを、得られ始めたところだった。自分がいなくなれば、甚壱はまた家政婦を探すのだろうか。そう考えた時に胸の奥でさざ波が立つのはなぜなのか。
「甚壱さま」
沙代の呼びかけが聞こえなかったのか、甚壱は手酌で注ぐ酒に意識を向けている。
もう長らく声を張っていない。沙代は慣れないことをしようとするせいで軋む胸を押さえ、息を吸った。
「甚壱さま」
今度ははっきりと声が出た。甚壱の目が沙代を見る。
「もう少し、今少し、お時間をいただけませんか? 子供でもないのに情けのうございますが、甚壱さまのことを知らない方と見て、緊張しております」
縋れるものは自分の手しかない。祈るように握り締めた手の下で、心臓が激しく打っている。自分が夫を、婚家のことを「知った」のはいつか。考えて浮かんだ日は、諦めた日でもあった。そうなったらなったで構わない。手放したくないと思ったのが生活か、それとも甚壱か、見極めがつく。
「俺が待たずとも、どうせ夏までこのままだ」
機嫌の良し悪しが感じられない、平坦な声で甚壱は言った。酒を注ぎ、飲む。虫の声に惹かれたように障子を見る。
「……釣書でも書くか」
呟いた口調は、冗談には聞こえなかった。
- 投稿日:2022年8月8日
- 夢小説を書くのは実に17年ぶりです。恋と呼べないこの薄い味付けは夢と言っていいんだろうかと不安です。
- 更新日:2022年10月19日
- 続編投稿を機に改題(旧題:300日)