「重てぇぞちくしょう……」
二年ほど前の雨の日、犬を拾った。名前はスペイン。
スペインは、拾ったばかりの頃に抱いて寝たのがまずかったらしく、子犬ではなくなった今でも、俺のベッドに上がり込んでくる。子犬の頃は俺が持ち上げないと上れなかったくせに、今では自分の力だけで上れるからやっかいだ。小型犬、せめて中型犬なら我慢できたかもしれないが、スペインはデカい。本人は甘えているつもりなのだろうが、俺からすれば、プレス機にかけられているようなものだ。
「起きろこのやろー」
犬の散歩とは朝早くに行くイメージがあったのだが、スペインは滅法朝に弱かった。俺が洗面所で身支度を調える間に玄関に移動して、大抵そこでさらに惰眠を貪っている。たまにベッドで寝たままのことがあるが、寝ていたいのならと放っておくと、あとで異様にじゃれついてきて面倒なので、引きずってでも連れて行かなければならない。一度外に出てしまえば溌剌として、帰るのを渋るくらいだから、朝の散歩が嫌なわけではないんだろう。
寝坊癖とは別に、スペインにはもう一つ変な癖があった。
「……今だけでいい。向こう行っててくれないか」
スペインは、俺が女の子といい雰囲気になるとじっと見てくる。吠えるわけでもなく、構えとせがむわけでもなく、テレビに見入るみたいにじーっと。
家の外――たとえばドッグランで会った子と話しているときなんかはそうでもないのに、家に上げたら絶対にやってくるのだ。空気が読めないのか、それとも空気が読めるから邪魔しに来ているのか。そのせいで女の子から苦笑や失笑をもらったことは数知れず。いい友達の地位は確固たるものになるし、それを知った同僚には「酔い潰れた子の避難先にうってつけ」とネタにされている。
それなのに、その後俺と二人きりになると、プイと背を向けるのだ。
「別に俺があの子とどうこうなったって、お前を捨てやしねーよ」
そう言って宥めてみるものの、一度悪くなったスペインの機嫌は、きちんと一食食べるまで直ったことがない。犬といえどもたった一匹の同居者。一つ屋根の下で不機嫌でいられるのは気分のいいもんじゃない。俺は怒りたいのをぐっと我慢して、早めに食事を準備する。飯を食い終わったスペインは、打って変わってご満悦の様相で、俺の膝に頭を乗せてくる。調子のいいことだ。家まで連れ込めた女の子をみすみす逃がした俺は、一人寂しい夜を過ごさなきゃならないってのに。
スペインは名犬とは言えないけれど、いい奴だと思う。
……そりゃ、俺だって人間だから、スペインに向かって文句を言ってしまったことは、何回かある。神妙な顔で俺の小言を聞いていたスペインが、しょんぼりと部屋の隅っこに行くのを見た時は、言い過ぎたと後悔する。でも、数時間も経たないうちにけろっとして、後日また同じことをしていることからすると、やっぱり分かっていないんだろう。王さまの耳はロバの耳だって穴に向かって叫ぶみたいなもんだ。そのおかげで俺は誰にも言えない泣き言だって言えるんだから、分かって欲しいとも思っていない。
俺たちは、それなりに上手く行っていた。
今日この日、俺が仕事から帰って来るまでは。
「おかえりー!」
家に帰ると知らない男がいた。全裸で。
俺はドアを閉めた。表札を確認しようとして、出していないことを思い出す。家賃が安いだけが取り柄のボロアパートには、部屋番号の札なんて丁寧な物もない。部屋を端から数えようにも、俺の部屋は廊下の突き当たり、つまり端から一番目で、数えるまでもない。
そうこうしているうちにドアが開いた。開けて出たのはさっきの全裸男。俺だって夏場にパンツ一枚なことくらいあるし、寝るときは素っ裸だけど、さすがにドアを開けるときは服を着る。この非常識極まりない男が長身で、悪くない顔立ちであることで俺の苛立ちは倍増した。
「どうしたん?」
「……部屋、間違えたみたいで」
「何言うてんの、ここロマーノの家やんか。自分で鍵開けてたやん」
男が全開にして見せたドアの奥には、見慣れた自分の部屋があった
***
「神さまにお願いして、人間にしてもらってん」
スペインと名乗った男は、もし尻尾があったら音が立つくらい振っていそうな笑顔で言った。
俺は頭を抱えた。ベッドが、部屋が狭いなんて、問題ですらなかったのだ。給料日に定時に上がり、飼い犬のために食材を奮発して帰宅するなんて、寂しき男やもめのようなことをするんじゃなかった。もしタイムスリップできるなら、数時間前の自分を会社のデスクに縛り付けて帰れないようにしたい。
「……おかしいだろ」
「おかしないで」
やっとこさ絞り出した俺の台詞は即座に否定される。
「神さまなんて、ンなもんいるわけねーだろ」
「おるよ。時々通ってるで」
男が指さす窓を見る。家を出るときには閉まっていたはずのカーテンが、帰ったら半開きのことがあるのは、スペインが外を見ていたからか。なるほどそういう……いやいやだからこいつはスペインじゃないんだって。
「……神さまとやらがいると仮定してだな……なんで女の子じゃねーんだよ。助けた動物が人間になるっつったら、美人と相場が決まってるだろうが」
「それは、俺がオスやからしゃーないやん」
寝言のようなことを真顔でほざいているくせに、男は至極まっとうなことを言った。
少し癖のある花壇の土のような色の髪と、椿の葉のような深みのある緑の瞳。図体はでかいくせに、そこだけ見るとガキのようにも見える目。……要素は一緒なんだよ、要素は。おまけに首には俺がスペインに付けてやった首輪。変態かよ。スペインめ、不審者がいるってのにどこ行ったんだよ。
「信じるん、無理?」
俺が苛立っていることを察したのか、首を傾けた男は、心底不安そうな顔をしていた。人間くさい顔をする犬なのか、犬くさい顔をする人間なのか、その顔は拾った当時のスペインとそっくりで、俺は思わず笑ってしまった。
「やめた。考えるのめんどくせーから信じてやるよ」
「ロマーノ! ありがとう!」
「うわっ」
飛びつくように抱きついてきた男からは、スペインと同じにおいがした。
「……おい、いつまで抱きついてんだよ」
何が嬉しいのか、スペインは「感激のあまり」と言うには長すぎる時間、俺の体を抱きしめている。毛皮はないが、スペインの肌はいつもと同じくらい温かくて、妙に安心してしまう。そういえば、抱きしめるのはともかく、抱きしめられるのなんて久しぶりだ。この年になって、しかも裸の男相手にそれを思っているというのはなんとも落ち着かない気分だったが、不思議と不快ではなかった。
「ほんまは飯作って待っとりたかってんけど、作り方がよぉ分からんかってん」
「そうだ飯。待ってろ今作るから」
これでおしまいだと、俺からも力を入れて抱きしめて、頭を撫でてやる。髪の手触りは、犬だったときのスペインの体毛とよく似ていた。
「うん」
「おい、だから放せよ」
「俺、ロマーノのこと好きや」
「分かった、分かった。いい子だから、な」
***
「ごちそうさまでした。旨かったわぁ」
「当然だろ」
「一回同じもん食うてみたかってん。ありがとう」
食後のコーヒーを飲み終えたスペインは、「さて」という感じで立ち上がった。隠すために膝に掛けさせていたタオルがはらりと落ちる。
「こら、丸出しにすんな」
「今までおおきに」
「今からも巻くんだよ」
「俺出て行くわ」
スペインは笑顔のまま、さっき「ごちそうさま」と言ったのと同じ声で言った。
あまりのことに、一瞬、声が出なかった。
「……散歩か?」
「ちゃうよ」
スペインが言う「出て行く」はそんな意味じゃない。俺だってそのくらい分かっている。
「……お前がいたら部屋が狭いって言ったからか? それとも金がかかるとか、女の子呼べないって言ったからか? あれは、本気で言ってたんじゃ――」
「うん、分かってるで。ロマーノのせいとちゃうねん」
俺の口から出たのは情けない弁解は、呆気なく否定される。
俺のせいじゃない。安心できるはずの言葉が、こんなに悲しく聞こえるとは思わなかった。
おかしい。ドアまでぺたぺたと歩いて行くスペインの尻を見ながら、俺は考えた。
そうだ、いくら何でも突然すぎる。一夕だけ人間になって、一食食ったら出て行くだと?
「……お前、何か隠してるだろ」
「え、隠してへんよ?」
「嘘だな」
都合のいいことに、スペインは鍵の開け方が分からないのか、ドアノブを覗き込んでいる。
「俺がデートに行く前に靴隠した時も、仕事行こうとしたら鍵隠してた時も、そんな顔してたじゃねーか」
靴の時はただのいたずらだったが、鍵を隠された時、マットの下に隠されてるのを見つけたあと、スペインを叱ろうとしたら急に目の前が暗くなって、気づいた時には俺は病院のベッドの上にいた。
あの日の記憶と言えば、医者に呆れた顔をされたことと、看護師が男だったことと、あと、記憶が病院に飛ぶ直前に聞いたスペインの吠え声くらいだ。一年以上一緒に暮らしても吠え声なんて聞いたことがなかったのに、近所迷惑なくらい吠えまくっていたスペインは、人を呼んでくれていたんだろう。見舞いに来てくれた大家の爺さんが言うには、あの時の俺はいつ倒れてもおかしくないくらい疲れていたらしい。もし俺が鍵を探さず出て行こうとしていたら、スペインは噛みついてでも止めたのかもしれない。
「――スペイン、こっち向け」
考えをまとめた俺は、ドアノブをガチャガチャ言わしているスペインに呼びかける。
「何も隠してないなら、俺の目を見てもう一回言え」
「……嫌なご主人やなぁ」
振り返ったスペインは耳の後ろを掻いた。
「俺なぁ、明日死ぬねん」
「……は?」
「ロマーノとずっと一緒におりたいねんけど、だって、俺怖いもん。でも怖がったらロマーノ心配するやん。それはもっと嫌や。せやから出て行くねん」
「どういうことだよ?」
「うーんとな、人間にしてもらうのに条件があって……うん。条件があるねんけど、それが満たされへんかったら死んでまうねんてぇ。――あ、死ぬって言うても、キレイさっぱり消えて、最初からおらんかったことになるねんて! せやからロマーノ寂しないで!」
どうやら俺の顔が曇った意味を取り違えたらしく、スペインは見当外れのフォローを入れた。
「……条件って何だよ」
「言われへん」
「いいから言え」
「いや……ええわ。怒らへん?」
「内容次第だ」
「ロマーノと交尾したい」
「…………分かった」
「ほなな、ロマーノ。今まで楽しかった。大好きやで」
「おい待てっ」
鍵は開いてしまったらしい。かなり無理のある笑顔を浮かべたスペインは、俺が呼び止めたのを無視して外に出ようとする。最後の最後で反抗しますかちくしょーめ。
「分かったっつってんだろ。……好きにしろよ」