「ロマ、ロマ」
ぺろぺろと顔を舐められる。
「うん……?」
「ああ、よかった」
俺が目を開けたことにほっとしたのか、覆い被さるようにして覗き込んでいたスペインは、ごろりと横になった。休みの日に朝寝坊を楽しんでる時みたいに、緑の目が俺の顔をじっと見る。スペインを撫でようと腕を上げたら、まるで水から出すみたいに重たい。汗で濡れた髪を撫でて、少し日に焼けたような色の頬を触ってみる。しっとりと汗ばんだ肌。今は人間なんだと改めて実感する。
スペインは俺の手に頬を擦りつけて、笑った。
「ロマーノに撫でられるの好き」
そして手のひらをぺろりと舐める。まったくこいつは、何でも舐めやがる。
「え、ちょ、ロマ近い――」
「じっとしてろ」
ぴしっと停止したスペインの目には、怖じけた色が浮かんでいた。「交尾」して、しっかり中に出しといて、今さらキスくらいでうろたえんのかよ。順番が逆だろうが。
「ロマぁ」
頭の後ろに手を回して、いざ唇をつけようとした時に聞こえた情けない声。そんな風に言われたら俺が無理やりしてるみたいじゃねーか。
「嫌か?」
「嫌とちゃう、けど。だってこれ、ロマーノが女の子としてるやつとちゃうの」
おかげさまでよく未遂に終わるけどな。あとそれ今言うなよ。
「俺でええの?」
「お前としたい」
黙ってしまったスペインにとりあえず軽く口付ける。びくっとしたものの抵抗はしてこない。確認のために目を見たら、拗ねたみたいな顔で逸らされた。……ま、いいか。
閉じたままの唇をはんで、舐める。思っていたよりも柔らかくて厚みがある。かちこちに固まっているのがおもしろくて、舌入れてみようとしたら、スペインは唇をさらに強く結んだ。
「……開けろ」
文句でも言うつもりだったんだろうか。俺の命令を聞いた訳ではなさそうな、薄く開いた唇の間に舌をねじ込んで、スペインの舌を絡め取る。強く吸ってやるとスペインは肩を震わせた。出しっぱなしになった舌を噛んで、表面を舐めてみて、確かめる。別に長くはねぇな。普通だ。でも嫌いじゃない。
「ふゃ……ろまーのぉ」
固まってたのが嘘みたいにふやふやになった唇をついばんでいる最中に、大事なことを思い出した。
「……お前、死なないんだよな?」
「ひぇ?」
「明日もちゃんといるんだよな? 飯食って、散歩行けるんだよな?」
「んー? んーんーん。うーん……」
「おい待てこの野郎! 俺とヤったら死なずに済むんじゃねーのかよ!?」
「だ、大丈夫、俺は死なへんで! ただな……」
じっと俺の顔を見ていたスペインは、すいっと目を泳がせた。そのままもごもごと言う。
「交尾したら……ていう訳やないねん」
「は!? でもお前!」
「言いたかったけど! 言われへんようになっとってん! ……ほんまは、ロマーノが俺のこと好きって心から思って、そう言うてくれたらよかってんけど」
「じゃ、じゃあ交尾って」
「……そんなん無理やろから……最期に一発、ヤっとこうかと」
死んでも死にきれへんやん? と上目遣いに同意を求めてくるスペインの気持ちは、分からないでもない。でも。
「お前なあ!」
起き上がろうとしたら、尻から腰にかけて信じられないくらいの痛みが走った。やばいぞこれ。ケツが二つに割れるとかそんな程度じゃない。本当に裂けてるみたいだ。すんげぇ痛い。
勢いを殺がれて、俺はため息を吐いた。
「好きでもないのに飼ってると思ってたのか?」
「やってロマーノは、俺には『好き』って言うてくれへんやん」
「そんなことで命懸けたのかよ」
「そ、それだけと違うねんけどっ」
「ああ?」
「ううん、何でもないです」
「この、大バカ野郎め!」
「ごめんなさい」
スペインがうなだれる。しゅんと垂れる尻尾が見えた。
「……好きに決まってんだろうが」
「うん」
抱きつこうと手を伸ばしてくるスペインの照れたような笑顔が、幸せそうに見えるっていうのは勝手すぎるだろうか。好きだって言葉にするだけでこんな顔をするなら、もっと言ってやればよかった。
「……あのな、お願いがあるねん」
スペインはすりすりと頬ずりするのを止めて、言いにくそうに切り出した。
「なんだ?」
スペインをここまで不安にさせたのは俺の落ち度だ。仕事ばっかりでほとんど家にいないし、たまの休みは女の子にかまけている。文句も言わずに、家で一匹ぼっちで待ってくれるこいつは、もっとわがまま言っても、甘えてもいいはずなんだ。
スペインは名残惜しそうにもう一度ぎゅっと抱きついてから、改まった様子でベッドに座った。
「もう一回したい」
「無理に決まってんだろ」
即答したら、スペインは額をベッドに擦りつけた。
「お願いします。そこをなんとか」
「ダーメーだ」
「ロマーノー」
「うっ」
哀れっぽく揺れる瞳。初めて会った日を思い出した俺の心が条件反射的に揺らぐ。……こいつ、絶対に分かっててやってやがる。絶対にやらねーぞ。負けてたまるか。
俺は首を振って、目を合わせないようにした。
「……おやつ! おやつ抜きでええから!」
「一生いらねーのか? それなら……」
「あ……それは……」
俺が乗り気になったフリをして体を起こそうとしたら、思った通り、スペインはためらいを見せた。
「ははっ、ほんっとーにバカだな」
***
目を開けると、視界がもっふりとした毛で覆われていた。黒に近い焦げ茶色の、巻き毛っぽい毛。スペインの毛並みはとてもいい。俺の自慢だ。そういや昨日、スペインが人間になってて、それで。
「…………っ!」
火が出てるんじゃないかってくらい顔が熱くなった。しかし信じがたい。だって見ての通りスペインは犬だ。それにしてはリアルで、ご丁寧に腰は痛いし体はだるい。でも実際に犬が化けた男とセックスするより、そんな淫夢を見たという方がずっとずっとまともだろう。
スペインは俺の葛藤も知らず、すやすやと寝ている。
「スペインー」
揺さぶっても、毛の塊はいつも通り起きない。俺はふと思いついて耳元に口を寄せた。
「……キスして欲しかったら起きろよ」
リップ音もサービスしてから、俺は痛む腰を庇いつつ、ベッドからずるずると降りた。何やってんだ、俺。夏でもないのにやけに汗かいてるし、今日は散歩の前にもシャワーしとくか。そう思いながらのたのたとバスルームに向かう俺の足元を、黒っぽい影がすり抜けた。
「うおっ」
危うく踏みそうになったのは、なんと目を覚ましたスペインだった。俺の前に回り込んで、俺の顔を見つめながら、千切れんばかりの勢いで尻尾を振っている。
「キス……すんの?」
スペインの尻尾の動きがさらに激しくなる。最近掃除していなかったせいで溜まっていたらしい埃が、毛ばたきのような尻尾が作った風に煽られて巻き上がった。甘えるみたいに鼻を鳴らしてるくせに、直立不動の姿勢は崩れない。
「……ちくしょー……」