「しばらく見ない間にずいぶん成長しましたね」
スペインはオーストリアの言った意味を少し考えて、廊下ですれ違ったロマーノのことだと思い当たった。言われてみれば、食器棚にしまわせられる食器の枚数が増えている。
「んー、確かに背は伸びとるかもなあ。足とか尻とかはまだ子供の感触やけど」
「……手を出してはいけませんよ。子供だと思っているなら尚更」
「えらい信用ないなー。出さへんって」
スペインは手にしたペンをくるりと回した。
「でも向こうから抱いてって言うてきたらありやろ」
「何を言うんですかお馬鹿さん! なしに決まっているでしょう!」
「ええー」
「第一そんなことを考えるのもいけません!」
「堅いなあ、ええやん考えるくらい。想像の中で汚したかて本人は汚れへんよ」
「お下品なことを言うのはお止しなさい」
からかうつもりで言っているのか、本気でそういう対象にロマーノを見ているのか。スペインの表情を見極めようと、オーストリアは眼鏡を上げた。
「心配やねやったら直接本人に聞いてみたらええねん」
「そんなこと聞けるわけがないでしょう」
「はぁ、心配せんでもほんまに俺からは出さへんよ」
単純に肉欲を満たしたいだけなら、わざわざリスクを背負う必要はないのだ。街路に立つ艶やかな女達とは縁遠そうに思える友人から目を逸らして、スペインはため息をついた。
***
「フランス気持ち悪いでー」
「お前に比べたら俺はいたってまともだよ」
盛装していても会話は普段と全く変わらない。フランスとスペインは、ご婦人方と上司が声の聞こえる距離にいないことを確認してから、場にそぐわない話をしてからかい合っていた。
「それは流石に俺に失礼やわ。なあロマーノ?」
「……スペイン」
「え、俺の方が変態やのん?」
傷ついた顔をしたスペインの頭をフランスがはたく。
「そんなわけないだろ! ロマーノ大丈夫か?」
首を振ったロマーノは、いよいよ我慢できなくなったのか口を押さえて俯いた。
フランスはスペインを睨む。
「お前後先考えずに中出しすんのやめろよ」
「まだやってへんわ!」
「まだって何だよまだって」
「何やねんさっきから俺のこといじめてっ」
スペインは顔を覆って泣き真似を始めたが、すぐに真顔に戻った。
「ロマーノ、部屋出て休めるとこに――ロマーノは?」
「給仕に連れて行かせました」
スペインとフランスのやりとりを傍観していたオーストリアが答える。スペインは謝辞を述べてから、ふと思いついて尋ねた。
「もしかして女の子?」
「ええ、女性でした」
「面倒見てくれたのに悪いねんけど、ロマーノ、女の子やったら見栄張ってまうねん」
「じゃあ俺が行って代わってこよう」
表情を曇らせたスペインを見て一歩踏み出したフランスは、スペインに制された。
「俺が行くわ」
「ホストが抜けるのですか?」
「ええやん」
「……あなたはロマーノの立場を忘れているのではありませんか?」
咎めようとしたオーストリアを遮って、フランスが「まあまあ」と両手を胸の前に上げた。
「ちょっとの間だけ俺が代わるから、それでいいだろ? ひょっとしなくともスペインより上手くこなせるぜ」
ウインクして、オーストリアの肩に手をかける。オーストリアが嫌そうな顔をして肩の手に気を取られたその隙に、スペインは二人から距離を取った。
「というわけで行ってくるな」
クリームソースのペンネ。白身魚のグリルと、バジルを漬け込んだオリーブオイル、添え物のズッキーニと青菜。そして畑から採ってきたトマト。――食物の形が残ったままの吐瀉物により否応なしに思い浮かんだ献立には、ロマーノの嫌いなものは含まれていない。なのに、今思えばロマーノは無理して口に含み、飲み込んでいた。スペインは骨格も筋肉も未熟な背中をさすってやりながら、今晩の準備に追われていたとはいえ、気づかなかった自分の鈍さに怒りを覚えた。
「……さするな」
「吐き気収まった?」
細い声で訴えられ、スペインは背中から手を離した。
ロマーノは震えるように首を振る。
「も、吐きたくない」
「吐くのしんどいもんなー。一回口ゆすごか」
全部吐いてしまった方が楽になると分かっているが、辛いことを強制したくない。それは気遣いではなく単なる甘えだと知りつつも、スペインは時間稼ぎのために、握りっぱなしだったせいで中身がぬるくなっていそうなコップを差し出した。
ロマーノはコップを受け取ったものの、力の入らない手では上手く口に運べなかったらしく、カチリと歯に当たる音がした。口の中で小さな水音をさせてから吐き出す。それだけの動作で息が上がっている。
眉を寄せて肩を震わせたロマーノは、片手で口を押さえて、コップをスペインに押しつけた。
「っ、すぺい、ごめん」
スペインがコップを受け取ると、空いたもう一方の手も口に当てる。間近に見た吐瀉物と、そこから立ち上る熱と臭いは、ロマーノの吐き気を煽ると同時に嘔吐に対する恐怖感も強めたらしい。ロマーノは涙の浮かんだ目を、スペインの許しを得れば吐かなくても済むとでもいうようにスペインに向けた。
しかし、スペインはロマーノの望んだ答えを返さなかった。
「全部出したら楽になるから、吐いてしまい?」
「嫌だ」
「俺ついとるから大丈夫やで」
抵抗もむなしく、ロマーノの胃は本人の意思を無視して内容物を迫り上げた。ぎゅっと閉じた目尻から涙が流れ落ちる。口を押さえている手や指の隙間から、どろりとしたものが溢れ出した。
居心地の悪くなる音を聞きながら、スペインはホッと息をついた。
手や口を清めて窮屈な服を脱がせて、汗を拭いてからベッドに寝かせる。撫でた頭は汗でしっとりしているものの、体温は平常時と変わらない。スペインは床に膝をついて、半眼の視線を寝台と平行に滑らせているロマーノと目の高さを合わせた。
「ごめんな。知っとるやつが周りにおったら平気やと思ってん」
「……いいから戻れよ」
「ええやん」
スペインはさっきオーストリアに向けて言ったことと同じことを言った。
するとロマーノは、見てもいないのにオーストリアと同じ反応をした。
「客と使用人、どっちが重要だ?」
「……客、やな」
「分かってんじゃねーか。俺はちょっと人酔いしただけで、別に家が侵略されたわけでも政情がまずくなったわけでもない。くだらないことで面倒かけて悪かった、この埋め合わせは必ずする」
一息にまくしたてたロマーノは、しゃくり上げるように胸を震わせて息を吸った。目をつぶって、消え入りそうなほど小さな声で「ありがとう」と付け足す。
「ロマ」
「早く行け」
しっかりと開けられた眼の強さに追い立てられるように、スペインは渋々腰を上げた。そして自分の胸に言い訳をする。本当は埋め合わせなんて要らないが、何かさせてやらないとロマーノは今日のことを引きずるに違いない、と。
「……欲しいものがあるねんけど、それ貰ってもええ?」
どこまで責任を負えるのかを考えずに、勢いで口にしたのだろう。ろうそくの光が映り込んだロマーノの瞳が揺れる。まだ子供臭さが抜け切らない子分を安心させるために、スペインは続けた。
「ロマーノの家にも、家の人にも迷惑はかけへんよ」
「……それが何かは聞けないんだな?」
この半端な物分かりの良ささえなければ、我慢できたのに。
「ごめんな」
「別にいい。やるよ」
「ありがとう。……今日は戻らんから、ゆっくり休んでな」