「…………」
ロマーノが起こしに来ない平穏な朝も、七度も経験すれば飽きがくる。
スペインはベッドの中で寝返りを打った。ロマーノに与えた一週間の休暇――スペインにとっては一週間の猶予――は昨日で終わり、今日からまた「いつも通り」の日常が始まる。目覚めるにはまだ早い時刻だったが、二度寝する図太さも、起き上がる気力も今はない。一週間の間、頭突きの代わりのように襲ってくる胸を内側からえぐるような痛みが、安息を許してくれなかった。
覚えているのか、忘れられないのか。スペインはロマーノの感触が未だに残っている手を握った。
「……最後まで冷たかったなぁ」
ロマーノの手は、スペインに縋ることも、スペインを押し退けることもなく、ただシーツを握りしめていた。無自覚のうちに快楽を嗅ぎ取っていそうだった体は固く強ばり、震える肌は嘘のように冷たい。瞳は風にさらされた灯火のように不安定に揺れ、祈るように閉じられた瞼の端から涙が流れ落る。
それでもロマーノは、スペインの「止めようか」という問いにははっきりと首を振った。
「なんで、俺……」
止めてやれなかったのだろう。
スペインは関節が浮き出るほど強く拳を握り、再び寝返りを打った。
――忘れてや。俺も忘れるから、忘れて。
最後にロマーノに言い聞かせる自分の声が耳鳴りのように響いた。
抱きしめた腕の中、かつてないほど近くに在ったロマーノが、どんな顔をしていたかを知らない。でもきっと泣いていたのではないかと思う。それだけのことを、自分はしたのだ。
「はよ忘れよやぁ」
他の誰でもない、自分に宛てて、スペインは頼み込むように呟いた。
何の前触れもなく、乱暴にドアが開いた。
「起きろ! 朝メシ作れよちくしょう!」
「ロ……」
覚醒した体を持て余し、何とはなしにシーツを手繰り寄せていたスペインは思わず体を起こした。
「寝たふりしてんじゃねーぞ」
ベッドの横に立ったロマーノは、見開いたスペインの目を見て唇を尖らせる。スペインが起き上がらなければ腹の上に飛び乗るつもりだったのだろう。ロマーノの視線が着地予定地にちらりと走る。
「……だ、大丈夫なん?」
「お前こそ大丈夫か? いつもに増して変な顔だぞ」
いきなり開いたドアへの驚きも相まって、心臓が喉に移動したように高鳴っている。つっかえた空気を飲み下して、スペインがやっとの思いで絞り出した質問に、ロマーノはからかうような答えを返した。その顔には見慣れた捻くれた笑みが浮かんでいる。
夢だったはずはない。現に、七日の間、ロマーノはスペインの前に姿を現さなかった。
「起きてるんなら、さっさとメシの支度――」
スペインは踵を返そうとするロマーノを肘を掴み、ベッドに引っ張り上げた。小さく息を呑んで倒れ込んだロマーノの体を囲うように両腕をつくと、状況を把握したらしいロマーノの体が、表情が、目に見えて強ばった。瞳の色に、スペインの陰になっているからだけではない暗さが滲み出る。
「……どういうつもりだ」
声変わりしたとはいえ、ロマーノの声は少年のそれだ。しかしその硬質さに怯えの色はなく、冷めた表情の一枚下には、せっかくの演技を台無しにされたことへの怒りが漂っていた。
スペインはぱっと体を離した。
気圧されたようにロマーノから離れて腰を下ろすと、膝の上で手を組み、うなだれた。
「すまん」
「てめぇが忘れろって言ったんだろうが。どういうつもりだ?」
一目散に逃げるだろうというスペインの予想を裏切り、ロマーノはわずかにシーツが擦れる音をさせただけで起き上がる気配すらない。
「嘘やったんかなって思ってん」
「満足か?」
スペインが黙っていると、ロマーノは沈黙に飽いたのか、子どもを叱っていた母親がそれ以上叱るのを止めるときのような溜め息を吐いた。
「後悔してんのか」
「……当たり前やんか。あんなこと、せんかったらよかった」
「忘れたいんだよな」
「一週間頑張ったけどな、無理やった。何で止めてやられへんかったんやろうって……」
ロマーノに言っても意味のないことだと、スペインは溢れ出てくる告白を飲み込んだ。
「……気持ちよかったか?」
スペインが思わず振り返ると、ロマーノは天井を見つめていた。スペインがベッドに引き倒した時の格好のまま、仕事をさぼって眠っていた時のように無警戒に横たわっている。スペインが口ごもっていると、ロマーノは首だけ傾けてスペインを見た。
「止めたくなかったんだろ。そんなに良かったのかよ」
「……何を言うんや」
「俺は止めなくていいって言った。それなのに『止めてやれば』って言われると困るんだよ。……俺のせいにすんなよ。『気持ちよくて腰が止まりませんでした』でいいじゃねーか。畜生め。良くなかったのに俺に気ぃ遣って止めなかったってんなら、今すぐ殴らせろ」
ロマーノは言うだけ言うと、ごろりと寝返りを打ってそっぽを向いた。
スペインはロマーノの顔を見られるところに移動しようか迷って、手の指を組み替えた。結局動かずに、祈りを捧げるときのように手を組んで、額に当てた。
「……ロマーノは気持ちよかった?」
「最悪だった」
「すまん」
当たり前か、とスペインは再度うなだれた。
「……勘違いしてるみたいだから言ってやるけどな、釣り合い考えてみろよ」
ロマーノは馬鹿にしたように鼻で笑った。
「一回ゲロっただけで高く付きすぎだろうが。大体、お前が俺の面倒見るのは当然のことなんだよ。人が弱ってる隙に付け込みやがって。しかもやるだけやっといて忘れろとか、お前モテねーだろ」
「仰るとおりです」
モテないわけではなかったが、今この場で否定するほどのことではない。ロマーノはスペインの心を透かし見るようにスペインの顔をじっと見ていたが、興味がなくなったようにふいと横を向いた。
「……まぁいい。許してやるよ。さっさとメシの支度しろよな」
「あ、待って」
ベッドから降りようとしたロマーノを、スペインは再度引き留めた。
「格好悪いねんけど、もう少し、言い訳させて欲しいねん」
***
「見る度にあなたの立場が危うくなっているようなのですが」
ロマーノに話しかけていたかと思えば蹴りを入れられたスペインを、オーストリアは哀れみの籠もった目で見た。スペインは脚をさすりながら、歯を食いしばったような笑顔を作った。
「そんなことあらへんよぉ。俺が親分であいつが子分、ばっちりやで!」
「それが貴方の方針だというなら構いませんが……」
散々口を酸っぱくして言ってきたからだろう。オーストリアは諦めの色が濃い溜め息をひとつ吐いて、ロマーノが走っていった方角を見た。ロマーノの逃げ足は速く、まだ痛そうな顔をしているスペインの姿さえなければ幻のようでもあった。
「あの様子なら心配ありませんね」
オーストリアは独り言のように口に出したが、ずっと尋ねる機会を伺っていたのだろう。スペインの腹の中で、そんなことはおくびにも出さないすまし顔をつついてみたい気持ちが頭をもたげたが、これ以上怒られるのも考えものだと思い直した。
「俺が守ったらなと思ってたのに、あいつ思ったよりずっとしっかりしとってん。ちょっと寂しいわぁ」
「うかうかしていられませんね」
珍しく笑いを含んだ声で言ったオーストリアに同意するように、スペインは笑った。