あくび

蘭太が子供の頃の話

 応接間の入り口で、あくびをする甚壱を見た蘭太は立ちすくんだ。
 禪院家では大口を開けてかぶりつくような物――前にこっそり食べさせてもらったハンバーガーとか、アニメで見た丸のままのりんごとか――は出ないし、甚壱は他の人のように大声を出すこともない。ほとんど口を開かないで話すのに籠もることなくよく聞こえる声は、数多くある甚壱の好きな所の一つで、蘭太は甚壱に名前を呼ばれる度に胸が弾んだ。
 その甚壱の口がこれだけ大きく開くとは、考えたこともなかった。
「どうした、蘭太?」
 あくびを終えた甚壱は、入室を承諾したというのに、ドアを開けたきり立ちっぱなしになっている蘭太を訝しんだ。
 声を掛けられた蘭太ははっと我に返った。甚壱が読んでいる新聞は昨日の日付で、甚壱は今朝、出先から帰ってきたところだ。この後に面会の予定があるらしく、自室に戻って寛ぐほどの余裕はないために、本邸で時間潰しをしているのだという。貴重な休息を邪魔するわけにはいかなかった。
「あの、これ」
「ああ」
 蘭太は渡してくるように言われた今日の新聞を、折りたたまれた状態のまま甚壱に向けて差し出した。新聞を片手で受け取った甚壱は、それをそのままテーブルの上に置いた。重力に従って垂れていた昨日の新聞を再び取り上げると、もう一度蘭太の方を見る。
「助かった」
「いえ!」
 礼を言われたくて残っていたのではない。蘭太は慌てて首を振った。瞼の裏にはまだ、甚壱があくびをする姿が焼き付いている。口の大きさはもちろん、気の抜けた姿など見たことがない。衝撃は大きかった。
「……どうかしたか?」
 蘭太の表情から他に用があると踏んで、甚壱は新聞を掲げていた手をテーブルに預けた。蘭太は自分が不躾な視線を向けていたことに今さら気付いて気まずさを覚えたが、後に引くこともできずに甚壱の顔を見上げる。
「甚壱さんの口……開くんですね」
 甚壱はゆっくりと瞬いた。すっと斜め上を見てから、瞬きをもう一度、そして蘭太の方に戻ってくる。ついキョロキョロしてしまう蘭太にとって、思慮深さと落ち着きを感じる動作だった。気圧されたような感覚を抱きながら、蘭太は甚壱が口を開くのを待つ。
「蘭太の頭くらいなら入る」
「えっ」
「試してみるか?」
 蘭太は身を震わせるように首を振った。
「け、結構です」
「そうか」
「はい」
 大人達が口にする「結構です」の使い所に自信はなかったが、甚壱は気分を害した風ではない。それどころか口元をわずかに緩ませて、椅子の背もたれに背中を預ける。
「試したくなったら言ってくれ」
「ぅあ……ありがとうございます」
 謝意か挨拶か、どちらか分からないまま頭を下げた蘭太は、駆け出したい気持ちを抑えながら、ぎこちなく入り口に戻る。胸の中で渦巻いている気持ちは、頭を噛もうと向かってくる獅子舞を見た時の構える気持ちに近い。
「蘭太」
「はいっ」
 肩を跳ねさせて、蘭太は振り返った。甚壱は先ほどと変わりなく、椅子に深く腰掛けている。新聞を畳んでテーブルに置く間が妙に怖くて、蘭太はぐっと拳を握る。
「すまん、冗談だ。そんなには開かん」
「そうですか……よかったです」
 安堵のあまりしゃがみ込みそうなところを足を踏ん張って、蘭太は深く頷いた。

投稿日:2022年5月23日
子供を構うのが下手くそな甚壱を書きたかった。でもあの環境なら小さい子慣れしている気もする。