一生の秘密

「ひとえに甚壱さんのご指導の賜物です」
 報告のために上がった甚壱の屋敷で、蘭太は深々と頭を下げた。
 鼻先で香るい草の匂いに、甚壱が涼んで行けと言うのに甘えたあげく、宿まで借りた夏の日を思い出す。思えばあの夜がはじめだった。
 声変わりすらまだだったあの頃は、術式どころか体の使い方すら未熟で、炳と銘打つに足ると認められた今でも、甚壱の目に留まったのは幸運だったとしか思えない。口にしたのは月並みな台詞ながら、蘭太の真心であり、甚壱にこそ伝えたい言葉だった。
「顔を上げろ、蘭太」
 蘭太は背筋を伸ばし、正面にあぐらをかいた甚壱の、年齢なりにいかめしさを増した顔を見る。術式や呪力操作の練度が加わるために、肉体的なピークがそのまま術師としてのピークになるわけではない。幼心に抱いた印象は損なわれることなく、蘭太の目に映る甚壱は依然として重厚な男だった。
「何か祝いをやらねばな」
「甚壱さん……」
「大手を振って祝えるまたとない機会だ。遠慮をするな」
 超が付くほどの実力主義。優秀な術式を得るために積極的に外の血を入れる禪院家の中で、家柄が古いことで向けられる尊敬は形だけのものだ。祖となった術式の相伝を、長く出していないのならばなおのこと。蘭太は系譜を辿ったときの自分の立ち位置を理解していたし、余計な誹りを受けることがないよう、甚壱が心を砕いていたことも知っている。
 子のない甚壱を相手に我が子のようにというのは適当ではないだろうが、甚壱が蘭太にかけた愛情は並のものではなかった。炳の一員となり、恩に報いる足がかりがようやくできたというのに、甚壱はさらに蘭太に与えようと言うのだ。万物を潤す雨のごとく、惜しむということを知らない甚壱の情の深さを思いながら、蘭太はゆっくりと息を吸った。
「でしたら、これからも稽古をつけていただけませんか」
 炳になったとはいえ、甚壱はもちろん、先達にはまだ及ばない。一本立ちして切磋琢磨すべき身でありながら、甚壱の下にいることを許されたいというのは、巣立ちを拒むような甘えた願いだ。しかし自らを鍛えることは、甚壱から注がれる愛情を無駄にしないためにできる唯一でもあった。
「蘭太、お前は本当に真面目だな」
「それだけが取り柄です」
 甚壱は首を振って、仕方のないやつだと言うように苦笑した。
「稽古などいくらでもつけてやる。だがそれでは今までと何も変わらん。何かないのか? 金で買えるような欲しい物は」
 蘭太は困惑した。金で買える物と明示されたことで、かえって自分の欲深さを思い知った形だった。特別一級術師である甚壱の時間が金銭に換算していくらになるかなど、考えるだに恐ろしい。
 返事に窮した蘭太を見かねたか、甚壱は片手を振った。
「今すぐでなくていい。思いついたら言え。俺が勝手にやってもいいが、お前は何をやっても喜ぶから好きな物が分からん」
「甚壱さんからいただくものは何でも嬉しいです」
 甚壱は蘭太が間を空けずに答えたのを、追従と取ったのではないだろう。向けられた眼差しの温かさを感じながら、蘭太は甚壱との間にある距離を思った。

投稿日:2022年6月21日