秋の猫
その猫を初めて目にしたのは秋口のことだった。
暑さの記憶も薄らいで、赤紫の萩の花が重たげに見えるほどに咲いた頃、枝垂れた枝の下からひょっこりと現れたのだ。
白地に黒のまだら模様、黄色い目、ツチノコの胴のように太く短い尻尾。人間ならば鼻歌でも歌っていそうな足取りで庭を横切りかけていた猫は、甚壱の視線に気付いた瞬間びたりと足を止めた。縁を通って部屋を出るつもりだった甚壱も、思わず足を止めて猫を見る。
見つけられた猫の胸中はさておき、猫を見つけた時点の甚壱は何も考えていなかった。猫が見開いた目を甚壱に注ぎ、頭を低くし、じりじりと体重を移していく警戒ぶりを見て初めて、興味が湧いた。
甚壱は横に垂らしていた手を、そろりと袖の中に入れる。その動きにすら、猫が警戒を強めたのが分かる。
呪霊、もしくは人間と相対することを思えば、至極気楽な膠着状態だった。先に動く気はなく、猫がどうするのかを面白半分に眺める。
猫はしびれを切らしたように踵を返した。向かう先は元来た植え込み。飛び込まれた萩は、今が盛りの花弁を惜しげもなく散らした。
◇
甚壱が資料を取って戻ると、縁側に腰を掛けて待つ蘭太が、隣に座った猫を撫でていた。頭と尻がまだらに黒い。見知った猫だ。
甚壱に気付いた蘭太が立ち上がる。猫を気遣ってか、動きはいつもより緩やかだ。
耳をぴんと立て、蘭太の動きを目で追った猫が、今度は蘭太の視線を追うように甚壱の方を見る。
反対に、蘭太の目は猫を向いた。
「人懐こい猫ですね」
「……そいつは野良だ」
秋口に現れたぶち猫は、甚壱が何もしてこないと学習してから、庭を通り道にするようになっていた。糞や小便を垂れるでもなし、家の中に入ってくることもないから好きにさせていたが、ここまで人を恐れないとは思っていなかった。
猫は甚壱が近づいても逃げることなく座っている。蘭太は懐いていると言ったが、甚壱は猫が縁に上がっているのはもちろん、人に触れさせているところを見るのも今日が初めてだ。
「そうなんですか。じゃあ上げてはいけませんでしたね」
意外だという顔をした蘭太が掴んで持ち上げると、猫は野良とは思えない無抵抗さで長く伸びた。蘭太は猫を持ったまま、沓脱ぎ石をとんとんと降りる。
地面に下ろされた猫は四つ足で立った。そのまま去るかと思いきや、屈んだ蘭太の足元にまとわりつきながら半周し、甚壱の方に顔を向ける。
そうして一声、にゃーと鳴いた。
腰を起こしながら猫の様子を追っていた蘭太は、きょとんとした顔で瞬いた。猫と一緒になって甚壱を見上げ、おもしろがるように口角を上げる。
「甚壱さんの家の子になりたいって」
「馬鹿を言うな。俺には寄ってこない」
猫の方を向いた蘭太は、
「いい男のそばは照れるもんな」
と、猫撫で声とはまた違う、年の近い年少者に話しかけるような声音で話しかけた。
甚壱は溜め息をついて、資料の入った書類箱を畳の上に置いた。
「手を洗ってから持って行け」
顎をしゃくって、上がるように促す。
猫を触った手を開いて見た蘭太は、決まりの悪そうな笑みを浮かべてから、再び沓脱ぎ石を上がった。草履を脱ぎながら、振り返って猫を見下ろす。
「お前は上がれないのにごめんな」
言葉が分かったわけではあるまいが、猫はぷいと顔を背けて、植栽の方に向かって歩き出した。一度振り返ってから、枯れ萩の中に潜り込む。枝が揺れ、黄色くなった葉がぱらぱらと落ちた。
「蘭太」
「はい」
呼ばれて顔を向けた蘭太は、なぜか満足そうだった。
- 投稿日:2022年8月15日