書き留める

「現金書留でーす。印鑑お願いしまぁす」

 差出人は禪院甚壱。金額欄は空欄だったが厚みから予測はつく。甚爾は配達員から受け取った現金封筒をこたつの天板の上に置き、こたつ布団をめくりながら妻の向かいに腰を下ろした。

「ありがと」
「おう」

 チャイムの音が鳴り響いた休日の昼下がり。どちらが出ていくかというじゃんけんは、今回は甚爾の負けだった。しかしそもそも甚爾は妻ほどには寒さを感じていない。じゃんけんの結果に一喜一憂する様子がおもしろいから毎回付き合っているだけで、こたつから出ること自体はどうということなかった。
 外気を吸ってから改めて嗅いだ部屋の空気は、台所と居間の区別の薄い家のこと、カレーの匂い一色だ。炊飯器のスイッチを入れ忘れたという妻は「早炊きだからおいしくないかも」と言ったが、生米でも食べられる甚爾からすれば、温かい飯が食えるというだけで十分で、蒸らしている今ももう蓋を開けていいと思っている。怒られるからやらないが。

 目の前に置かれては気になるのだろう。妻は何となくで点けているテレビから目を離して、宛名に甚爾の名前が書かれた封筒を見る。正確には差出人の名前を。雑談の中で兄がいると言った覚えはあるが、名前が甚壱だとは言っていない。

「兄貴からだ。開けていいぞ」
「だめだよ、自分で開けなきゃ」
「どうせ結婚祝いなんだからいいだろ」
「それでもだよ」

 諦めて封筒の封を指で切ろうとすると、手元に赤い柄をしたハサミを差し出される。刃物は持ち手より刃先を向けられる方が多い人生だ。甚爾は持ち手を向けられるのは逆に気味が悪いとは言わないまま、人を簡単に刺せないようになっている、刺そうと思えばいくらでも刺せる先の丸いハサミを受け取った。

「少ねぇな」
「そんなこと言わないの」

 久しぶりに見る兄の筆跡。筆ペンにはない墨のにおい。中袋に書かれた金額は予想通りに五万円。最後の部分だけ口にして妻の前に祝儀袋を置くと、案の定、呆れ気味の声で叱られた。

「アイツすげぇ金あんだぞ」
「気持ちだよ、気持ち。それに兄弟からってこれくらいだよ」
「兄弟いたっけ?」
「いないよ。知ってるでしょ。友達から聞いたの」
「ふーん」
「この字、お兄さんの字? 達筆だねぇ」

 役所に婚姻届を出すだけの結婚だった。それで終わりのはずが、妻側の人間が律儀に祝儀を渡したり送ってきたりするおかげで、人間関係を記した名簿のようなものが作成されている。甚爾は家族とは没交渉だと伝えていて、義理として結婚を報告した直毘人から渡されたギリギリ立つ太さの封筒は、直毘人の希望通りに無名の生活資金としてタンスの隅に入れてある。「どうせ結婚祝い」とは言ったものの、甚爾が正式に結婚祝いをもらうのは今回が初めてだ。

「お返ししなきゃね。お兄さんの好きなものって知ってる?」
「知らねぇ」
「そっか。じゃあカタログギフトでいいかなぁ」

 さっき渋ったのは何だったのかと思うほどすんなりこたつから出た妻は、棚から持ってきたノートに兄の名前と金額を書き記した。その様子は、妻自身の友人から祝儀をもらったときと変わらない。
 まさかこのノートに自分側の親戚が載ることになるとは。甚爾は信じられないような気持ちで、慎重すぎるほど丁寧に書かれたおかげで却って歪に見える兄の名前を見る。

「なぁ」
「ん?」
「うれしいもんか、これ」

 甚爾は日常生活における喜怒哀楽の判断を、勝手に妻に委ねている。近頃よく聞くアウトソーシングというやつだ。兄から祝儀が送られてくることに不信感こそなかったが、感情を動かされるという意味ではさざなみすら立たなかった。

「うれしいよ。お祝いだもの」

 返ってきたのは何の毒気も含みもない笑顔だった。
 甚爾が喉の奥の引っかかりを飲み込んだ瞬間、炊飯器から炊きあがりを知らせる間抜けなメロディが流れ出した。

   ◇

 手が離せなかったと謝る妻に気にすることじゃないと言って、甚爾は家に帰ったその足で郵便局に向かった。
 現金書留の差出人は禪院甚壱。前回と同じく家の誰かに出しておけと命じたのだろう。現金封筒にある筆跡は兄とは別の人間のもので、金額欄は相変わらず空欄だった。
 連名の郵便が届く度に「夫婦って感じがする」と笑っていた妻も、年賀状の時期を挟んで慣れたのか、最近は何も言わない。それでも宛名に名前が並ぶのを見るとうれしそうにする。

「兄弟からってこんなもん?」
「出産祝いは分からないなぁ。でもこういうのは気持ちだからね」
「ふーん」
「恵のこと、お兄さんに連絡したんだ?」

 していないとは言えず、甚爾は曖昧に言葉を濁した。妻はやっと寝付いた赤ん坊を起こさずに横たえられるかに全神経を注いでいて、話がこのまま流れることを予感した甚爾は、一年前に使ったノートをいつの間にか本棚になった棚から探す。
 この一年で増えた料理の本と育児の本、予定もないのに買った旅行のガイドブック、家電の保証書やら何やらの書類を挟んだファイルに追いやられたそれは、手に取る回数が少ないから、見た目だけは他の本よりも新しい。

 殺しも、絞め落としもせずに黙らせるというのはかなりの面倒だ。
 赤ん坊の呼吸の変化から覚醒を察知した甚爾は、泣き出すより先に赤ん坊の体を拾い上げた。驚く妻の視線を受けながら赤ん坊を揺らすと、泣き出す前兆なのかくしゃくしゃになっていた顔が緩む。

「……ノート、頼む」
「うん、分かった」
「あと、今のうちに寝ろ」
「ありがとう」

 何も面白いことはしていない。妻がしているようにしているだけだ。それなのに、甚爾が引き出しかけていたノートを取りに行く妻は、ずっと忍び笑いを漏らしていた。

   ◇

「香典の相場としては多すぎるんじゃねぇか?」

 差し出された分厚い香典袋を見た甚爾は、お愛想になりきらない半笑いを浮かべたまま、ダークスーツに身を包んだ甚壱の顔を見た。洋装で来るのは及第点として、この住宅街にあの車はない。しかも運転手付きときた。

「今回は家からだ」
「謹んでご辞退申し上げます、だ。その義理はねぇ」

 甚爾の反応を見越していたのだろう。甚壱は両手で持っていた香典袋を片手に持ち直すと、ジャケットの内ポケットから新たに袱紗を取り出した。中身を作法も何もなく片手で差し出し、甚爾も同じく片手で受け取る。

「えーと、なんだ、線香あげてくか?」
「いや、ここで帰らせてもらう」
「猿の家には入れねぇってか? アイツが会いたがってたんだよ。お兄さんてどんな人って。呪術師なら見えんじゃねぇの?」

 甚爾の態度に不快そうな顔をした甚壱が、ぐっと眉を寄せてから溜め息をつく。どうせバレているだろうから誤魔化す気もなく、甚爾は笑いを引っ込めた。

「つまんねぇな」
「この後予定がある。お前の妻には……よろしく伝えてくれ」
「聞こえやしねぇよ。死んでんだから」

 甚壱を引き止める理由もなく、背後では恵が昼寝から起きる気配もする。
 甚爾は甚壱を見送ることなく、蝶番が錆び付きでもしたように重くなったアパートのドアを閉めた。鍵のつまみを回してから、鍵を閉める意味を考える。

 テーブルの上にはビニール袋と弁当箱、味のしないせんべい、酔えもしないのに開けた缶、缶、瓶。彼女の席だった場所には、未開封の封筒が複数重なっている。その上に甚壱から受け取った香典袋を載せて、甚爾は出しっぱなしの椅子に腰を下ろす。
 恵が立てる物音を聞きながら、頬杖をついた甚爾は封筒を一つ引き抜いた。惰性で電話に出た甚爾の生返事をどう取ったか、彼女の友人が有無を言わさず送ってきたものだ。中身は見なくても分かる。彼女のために送られたものだというのに、宛名には甚爾の名前しか書かれていない。

「……もういいよな」

 あれは彼女のためのノートだ。彼女が人に思われているということを、彼女が人と関わり合って生きているということを記したものだ。今さら書いてどうなるのか。
 いっそ一緒に燃やせばよかった。

投稿日:2021年9月28日
恵の実母の詳細は来るのか。甚爾と甚壱の仲は実際どうなのか。恵の実母が実家と良好な関係なら甚爾は恵を預けていそうなので、恵母は実家と没交渉な気がします。そして甚壱は甚爾に積極的な関わりは持っていなさそう。いいんですよ二次創作だから。