言葉足らずはお互い様

「朝までいる気はないか」
 体を起こし、ここは自分のいるべき場所ではないのだとばかりに布団の外に出ようとする蘭太の手首を、甚壱は掴んだ。交わした熱は見返してくる蘭太の目元に色を添える形で残っていたが、手のひらに感じる脈は早くも平静を取り戻しつつあった。
「甚壱さんがお望みなら、ご随意に」
 予想通りの答えだった。甚壱はちくりと胸を刺した痛みを黙殺した。
 本音を言えば蘭太自ら残りたいと言ってほしい。が、関係を受け入れてくれただけで僥倖なのだ。多くを望むべきではない。
「残ってくれ」
「分かりました」
 その日から、蘭太は甚壱の部屋で朝を待つようになった。
 他人の部屋だということを措いても、熟睡できてはいないはずだ。いつも夜が明ける前にこっそりと部屋を抜け出して、甚壱の起床時刻を見計らって戻っては、やれ風呂が沸いただの、朝食ができているだのと伝えてくるのだから。
 女の代わりを欲したのではないと甚壱が言っても、自分がやりたいからやっているのだ、と暖簾に腕押しだった。
 いっそ抱き潰して、部屋どころか布団からも出られなくしてやろうか――と、思ったことはもちろんある。だが、鍛えることのできない内臓を、それも本来その役割を担うのではない器官を使っているのだ。必要以上の無体を働くことは躊躇われた。
 枕を交わすようになってから三ヶ月。すっかり狸寝入りが上手くなった甚壱は、音もなく閉まった障子を睨みつけながら、眉間に皺を寄せた。
 忍ばせた足音は聞こえない。感情に乱れのない時の穏やかな呪力だけが、蘭太が遠ざかるのを伝えていた。

   ◇

 廊下の窓から見える東の空が、薄っすらと白み始めている。
 夏至を控え、日に日に日の出が早くなってくる時期だった。
 冴えた空気とは裏腹に、押し付けられた交渉事が頭の中に居座っている。当主もせめて繁忙期に入る前に持ちかけてくれればいいものを。
 気晴らしと時間潰しを兼ねて散歩に出ようとした甚壱は、丁度任務から戻ったらしい蘭太と廊下で鉢合わせた。
「甚壱さん! もう起きていらしたんですか?」
「ああ。蘭太は今帰りか」
「はい。おかげさまで大事なく」
「ご苦労だった」
「ありがとうございます」
 夜通しの祓除だったろうに疲れた様子もなく、にこやかに笑う蘭太の顔は、天井近くで灯る常夜灯よりも輝いて見えた。その笑顔に眩しさすら感じて、甚壱はそっと目をそらす。
 蘭太の顔を見た時点で気晴らしは果たされたようなものだったが、今からやめるわけにもいかない。甚壱は道を空けた蘭太の脇を通り、玄関へと向かう。
 その背中を、耳慣れた足音が追ってきた。
「甚壱さん、お腹すきませんか?」
「……」
 すくもすかないも、言葉通りの朝飯前だ。蘭太は呼びかけに振り向いた甚壱の横を回り込む。
「めはり寿司があるんです」
 蘭太は提げていたビニール袋の持ち手を左右に広げて、中にあるものを甚壱に示した。めはり寿司が詰められているらしい透明のパックに、店名が記された紙が帯のように巻かれている。
「通りがかりに看板を見て、買ってしまいました。こんな時間に開いてるなんて珍しいですよね。よろしければいかがですか?」
「お前は?」
「帰りの車で先にいただきました。だから全部召し上がっても大丈夫です。天むすもあるんですよ」
 ビニール袋の中からパックを取り出し見せる蘭太の目に、電灯の光が映り込んでいる。その光が蘭太の瞳そのものから発せられているように、甚壱の目を焼いた。
「……もらおうか」
「分かりました。では、お茶と一緒にお持ちしますね」
 言ってから、蘭太ははっと気づいたような顔で甚壱を見上げ直した。
「いつ頃お戻りになりますか?」
「気晴らしの散歩だ。用があるわけじゃない」
 今すぐ戻ってもいいが、それでは蘭太が忙しないだろう。甚壱は帯を探ったが、軽い外出のつもりだったために時計を持っていない。
「お前が着替え終わる頃には戻る」
 答えた途端、蘭太が纏う光量がいや増した気がして、甚壱は狼狽した。蘭太が自分を避けている、もしくは組織の構造上やむを得ず近くにいるという考えは誤りだったのではないかと――もっと簡単に言えば、蘭太は自分に会いたがっていると、思わずにはいられなかった。
「分かりました」
 声量を抑える代わりのように、蘭太は力強く頷いた。不自然なくらいに元気なのは、眠っていないせいもあるのかもしれない。
 蘭太が去った後の廊下はがらんとして見える。
 部屋で、蘭太をどう迎えるか。
 仕事の相談とセックス以外で、蘭太は甚壱の部屋に来たことがない。気づきながらも無視していた事実が、存在感を増したように思えた。

 甚壱が散歩をしている間にシャワーを済ませたらしい蘭太は、眠気や疲れをおくびにも出さず、平時どおりの愛想のよさで給仕にやってきた。寝間着で来てもいいようなところを、きちんと服を着付けている。
「おいしかったので、甚壱さんに差し上げられて嬉しいです」
 そう言った蘭太の目が一瞬だけ、まだ敷いたままの甚壱の布団を見る。浮かんで消えた蘭太の表情は、怯えや忌避ではなかった。
「ここで寝るか?」
 接待をさせる気はないが、何となしに別れ難い。蘭太は十中八九辞退するだろうが、もしあの時、と考えるのは人命に絡んだ場面だけで十分だ。
「いいんですか?」
「……ああ」
「じゃあ、甘えてお借りします」
 まさかの二つ返事。布団まで移動した蘭太は、行為の前に見せる恥じらいが嘘のように、あっさり服を脱いで襦袢姿になった。鍛錬の後や風呂場など、甚壱の前で服を脱ぐことに抵抗がないとを示す事例は山ほどあったが、甚壱は面食らった。
「実は結構眠くて。部屋まで遠いのでありがたいです」
「……そうか」
 蘭太が浮かべた恥じらいは、甚壱が見慣れたのとは別のものだった。
 電気を消してやるつもりで甚壱が立ち上がると、蘭太は「そのままでいいですよ、食事は明るくないと」と言った。
 が、甚壱はスイッチを切った。縁側のカーテンは引いたままにしてある。日が昇っても、眠りに支障はないはずだった。流石に真っ暗な中で食べる気にはなれず、読書灯を点ける。
「甚壱さん」
 甚壱が視線をやると、蘭太は布団の脇に正座していた。
「昼食、よろしければご一緒したいです」
「なら昼前に起こしてやる」
「ありがとうございます」
 布団に身を横たえ、肌掛け布団を引き上げる蘭太を見て、加齢臭の三文字が頭をよぎる。甚壱は今さらだと追いやった。

 箸を置いた甚壱は湯呑みに手を伸ばした。ぬるくなった煎茶の渋みが、口に残る高菜の風味をすっきりと流す。
 甚壱は息を吐き、湯呑みを静かに平膳に戻した。
 自分から布団を貸すと言ったものの、まさか本当に寝ると思っていなかった甚壱は、視線を向けるだけでも蘭太を起こしてしまうような気がして、慎重に蘭太を盗み見た。全く無警戒に眠る蘭太は、真夜中さながらの静かな寝息を立てている。自分の部屋が敷地のはずれにあることに、今ほど感謝したことはない。
 蘭太が部屋を出たがるのはなぜなのか。
 解決されないどころか深まった疑問が、明け方に脳内を占めていた難事の代わりに幅を利かせている。頭をもたげた「蘭太は自分を好きかもしれない」という可能性は、今の年齢で考えるには青すぎて苦みすら伴う。
 熱い茶が飲みたい。甚壱は無性にそう思った。

   ◇

「気づいてたんですか!?」
 蘭太は箸で掴んだがんもどきをぎゅうと握りながら瞠目した。
「もしかして起こしてますか?」
「いいや。俺は元から朝が早い」
 明け方に姿を消すのはなぜなのか。昼食を取りながら尋ねると、甚壱の狸寝入りに気づいていなかった蘭太は、まずそこから驚いた。発言の真偽を確かめるように見てくる蘭太に、甚壱は「今朝会っただろう」と、そもそもの起床時間が早いことを念押しする。
 素直な性格をしている蘭太は、甚壱が寝たふりをしていることに疑問を呈すことなく、汁を搾りきってしまったがんもどきを口に運んだ。回答までの時間稼ぎではなく、食べるつもりだったから食べてしまった、といった様子だ。
 見る間に赤くなった蘭太は、今度は時間稼ぎだろう、飯茶碗を手に取った。箸をつけずに、一心に白米を見つめる。
「その……う、運動するから……お腹がすいてしまって……」
 何も言わない甚壱をちらりと見ると、間が持たなくなったか空腹に負けたか、いたたまれない顔のまま箸をつける。おかずにも漬物にも手をつけず、飯だけを口に入れては咀嚼する。このままでは食べづらかろう、と甚壱も食事を再開して、きんぴらごぼうを口に運ぶ。
「外に行っているのか?」
「うっ…………」
「言いづらければいい。縛るつもりはない」
「……躯倶留隊用に夜食があるんです。初めて夜出た時に分けてもらって、厨の方にもどうせ余るからって言われて、すっかり習慣になってしまって……すみません……」
「立場を考えろ」
「はい……」
 心底恥ずかしそうにする蘭太を見て、かわいそうなことをした気がしてくる。蘭太が朝まで共寝してくれないという不満から出た問いだというのに、炳としての立場を説くなど、おためごかしも良いところだ。
「次からは俺が夜食を用意しておこう」
「えっ、いえ、そこまでは……!」
「他に解決方法があるか?」
「自分で用意します。甚壱さんにご用意いただくなんて、至れり尽くせりすぎます」
 蘭太は決意を込めた様子で頷くと、本格的に食事に集中し始めた。
 至れり尽くせり。
 甚壱は蘭太の言葉を反復した。自分が何か、重大な思い違いをしているような気がした。
 甚壱は食事を終えて集中する時間を取るべく、自分の膳に向き合った。

投稿日:2022年11月11日
モデルにしためはり寿司屋は『めはり屋文在ヱ門』です。濃いめの味付けでご飯代わりには向かない気がしますが、朝5時まで開いているので大阪ミナミでの飲み会帰りにいいですよ。キタにもあります。
投稿日:2023年2月25日
改題(旧題:足りすぎているから返したい)