道案内

 蘭太は瞬きをして初めて、自分が眠りから覚めていることに気が付いた。夢のような他人行儀さで、今日の出来事が瞼の縁を撫でていく。
 甚壱と、旅行に来たのだ。
 ようやくと言っていい鈍さで現況を把握すると、蘭太は音を立てないようにそっと身を起こした。
 眠る前にあったぬるま湯に揺蕩うような感覚は抜けていたが、それでも全てがどこか遠い。
 詰め込み気味の観光に、長湯で引き出された疲労感、食べきれないほどのご馳走。くちくなった腹を抱えてテレビを眺めているとき、眠いなら眠れと、甚壱に肩を抱き寄せられた。夢見心地の中で、部屋の露天風呂にまだ入っていないと、少しごねたような記憶がある。
 見やった隣には、使われた様子のない布団が一式。花冷えの夜気ではなく、寂寥感によって寒さを感じた蘭太は、甚壱の姿を求めて部屋の中を見回した。
 部屋は二間続きになっている。見える範囲にいないのなら、襖を隔てた隣か、それともどこかに出掛けたか。
 ふと、障子に映る影が動いた気がして、蘭太は視線を移した。
「甚壱さん?」
 不安に眉を強張らせ、蘭太は怖怖と甚壱を呼んだ。
 障子の向こう、広縁の先には、縁の下をくぐるように造られた池が広がっている。泳いでいるのは人によく馴れた錦鯉だ。甚壱が部屋に備え付けられた餌に気づく前から、餌をもらえるものとして寄ってきていた。鯉も眠るのか、気配は静かだった。
「……起きたか」
 甚壱の声がして、影絵のように影が動く。硬質な音が一度。籐椅子の軋みに浴衣の衣擦れ。蘭太の眠りを妨げないためにだろう。広縁の明かりは灯されず、光源はカーテンの隙間から差し込む庭の明かりだけだ。
 カーテンが引かれ、影が消える。
 布団から抜け出した蘭太は、枕元に置かれていた行灯風のライトを点けてから、いつもしているように膝を揃えて座った。身なりを整えようにも、浴衣はほとんど乱れていない。食事時からずっとそうだったというのに、袴を穿いていないことが心許なかった。
「少し、飲み足りなかった」
 後ろ手に障子を閉めた甚壱は、蘭太の前に腰を下ろした。せずともいい釈明だ。蘭太は自分が余程寂しそうな顔をしていたらしいことに気づいて、首を振った。恋人を一人にしたと言うなら蘭太にだって責任がある。責める気など毛頭なかった。
「今……」
 何時ですか。そう口に出す前に、蘭太は脳裏でちかりと光った置き時計を探したが、記憶違いなのか見当たらない。スマートフォンは手元になく、腕時計は風呂に入る時に外したきりだ。
「そんなに経っていない」
 蘭太の素振りから察した甚壱が言う。夜だということもあってか、普段から低い声は一層静かだ。
「体調はどうだ?」
「平気です」
「そうか」
 興味のなさそうな相槌が、表情通りではないことは知っている。蘭太は甚壱の反応を代わるように頷いた。
「……寝るか」
「え」
「連泊するんだ。露天風呂は明日でもいいだろう?」
「はい。それは……はい」
 あぐらを解いて腰を上げ、布団に入ろうとする甚壱を、唖然としながら目で追っていた蘭太は、気を取り直して切り出した。
「しないんですか?」
「……」
 何をだと、問うような目が向けられる。怯んだ自分を励ますために、蘭太は腹に力を入れる。
「セックスしないんですか?」
 意気込みほど声は出なかった。
 互いの思いを確かめてから、初めてする二人だけの旅行だった。もちろん家業とも関係ない。話を受けたときに覚悟を決めたはずだったが、思うのと口に出すのでは感じが違った。
 蘭太は甚壱の反応の薄さに逃げ出したくなったが、深く瞬きをすることで堪えた。
 布団の上で座り直した甚壱は、先と同じように蘭太を見る。
「してもいいが……蘭太はそれでいいのか?」
 甚壱の眼差しに籠められた意図を推し測る余裕はなかった。蘭太は質問の意味が分からないという気持ちそのままに、眉を八の字にする。
「付き合っているからと言って、しなければならないわけじゃない。俺はしてもいいし、このままでも構わない。蘭太、お前自身はしたいのか?」
 蘭太は返事をするために息を吸ったが、声は喉の奥でつかえて出てこなかった。石を投じられた水の底で泥が舞い上がるように、形になっていたはずの決意も散り散りになっている。
 蘭太は吸った息をそのまま吐いた。動揺が収まっても、胸の中に降り積もった感情の形は定まらない。
「……分かりません。ずっと、そのつもりでいました。甚壱さんとそういうことをすると思って、今日、ここに来ました。しなかったら……どうなりますか?」
「どうもならない。今までと同じ付き合いが続くだけだ」
 蘭太は思い出を手繰り寄せた。区切りをつけた日こそあるものの、旧知であるために在り方は曖昧だった。恋人らしいときもあるし、以前と変わらないときもある。甚壱が自分の恋人だという事実は、蘭太が満たされるには十分で、性交渉を言い出したのは甚壱の指摘通り、そうするものだという認識からだ。
「答えを急がなくていい。お前はまだ若いんだ」
 黙りこくった蘭太に、手を差し伸べるように甚壱は言った。
 甚壱が蘭太の意見を汲もうとするとき、大人が子供の希望を尋ねるのに似た空気を感じたことは幾度もあった。年の差が埋まることはない。常ではないにしろ、甚壱が自分に向ける愛情が、自分が望むものだけではないことを――庇護欲を含むことを、気付いていないわけではなかった。
「……一緒に寝てもいいですか?」
 甚壱は鷹揚に頷くと、先に布団に横たわり、掛け布団を持ち上げる。蘭太はわずかに表情を明るくして、自分の枕を取り上げた。
 布団はひやりと冷たいが、すぐそばにある甚壱の体は温かだ。寝かしつけるように背を抱かれて、安心感と、情けなさを同時に感じる。そっと足を寄せると、応えるように甚壱からも寄せられ距離は近づいた。
「もっと大人なら……甚壱さんと年が近ければよかったです」
 子供じみた言い分だと思っても、言わずにはいられなかった。
 自分たちの関係は、宿の人にどう見られているのか。宿帳に走るペン先を、甚壱の筆跡で書き綴られる自分の名前を見ながら、考えていたことを思い出す。
「お前の年の頃の俺は、今ほど落ち着いてはいなかった。もし年が近ければ、蘭太は俺を好きにならなかったかもしれない」
「そんなことないと思います」
「そうか?」
 すかさず否定するが、甚壱の声には笑いが含まれている。蘭太はむっと口を尖らせた。宥めるように頭を撫でられて、蘭太はますます難しい顔をした。
「好きな奴を腕に抱いて何もせずにいられるほど、我慢強くもなかった」
 甚壱は自説を取り下げる気はないようだ。
 諦めた蘭太は大人しく撫でられていたが、甚壱に屈んでもらわなくともキスができる距離だと思いついて、目を輝かせた。視線を上げると、至近距離に甚壱の顔がある。
「甚壱さん」
「……すまん、このままでいてくれ」
 キスがしたいと言い出す前、蘭太が甚壱の声の変化に気付いたと同時に、ぐっと強く抱き締められる。素早く絡め取られた足はぴくりとも動かせない。押し付けられた感触に、蘭太は甚壱の焦りの理由を知った。
「……じきに収まる」
 耳朶を震わせる低い声。体に直接響いてくる胸の鼓動。甚壱の肌の熱さが、体臭が、感じる全てに置き換わったようだった。
 蘭太はまだ自由の残る手を動かして、甚壱の浴衣をぎゅっと掴んだ。
「甚壱さん、すみません……放してください……」
「……すまん」
「いえ」
 緩んだ抱擁からほんのわずかだけ身を引いて、蘭太は小さく首を振った。
「……このままだと、勃ちそうで」
 甚壱が既にそうだということは、何の慰めにもならなかった。
 羞恥心から心臓の音は高くなる一方で、蘭太は甚壱の顔を見ていられず、目をそらした。布団を出て、自分の布団に戻るのが最善手なのは分かっていたが、名残惜しさが枷になった。
「蘭太」
 体を起こしかけた甚壱は、険しい顔で中断し、仰向けに寝転がった。
「……俺はお前を抱きたい」
 拗ねたような物言いだった。甚壱は落ち着きなく寝返りを打ち、蘭太に背中を向ける。剥ぎ取りかけた布団を蘭太の方に送って、大きな溜め息をついた。
「すまないな。いい年をしてこのざまだ。待つつもりはあるし、しなくても構わん。俺は今の蘭太が好きだ」
 蘭太は心臓が一際高く打つのを感じた。
 突き動かされるように甚壱の背中に体を寄せて、甚壱がびくりとしたのに同じだけ驚いて、また離れられてはたまらないと、思い切りしがみつく。抱き締めるには不向きだと、普段羨んでいる甚壱の体格を恨めしく思った。
「したいです」
 理由が説明できる気はしなかった。自分が今分かっている事実だけを伝えるつもりで、できるだけはっきりと、蘭太は言った。
「甚壱さんと、セックスしたいです」

投稿日:2022年4月15日
しなくていいと言いつつ結局する流れになってしまった。
更新日:2023年1月24日
R18の続編「一寸先の崖下で」を公開しました。性描写がメインのため18歳未満の方にはご覧いただけません。