食い違い

 来月で十六歳になる。
 部屋を訪れた蘭太からそう聞いた甚壱は、行事を一つ思い浮かべた。
 通過儀礼的な筆下ろしが時代錯誤というのは禪院家の誰もが思っていることで、意見の対立がある訳ではなく、やめる機会がないだけだった。当主の交代は絶好のチャンスだったが、直毘人は意図的なものかはさておき己に直接の関わりのないことには手を触れなかったために、廃止を免れて今日に至る。
 甚壱は蘭太が先を言えずに畏まっている様子を見守った。
 実際のところ、話は蘭太の伯父から聞いている。あえて当人の口から聞こうとするのは、蘭太が自分で話をつけたという体裁を整えるためだった。甚壱は間を持たせるためにぬるんだ茶を飲み干した。
「……甚壱さんのことを尊敬しています。甚壱さんにお願いしたいです」
 甚壱が湯呑みを茶托に戻した時にやっと、蘭太は自らの望みを口に出した。
「俺は構わないが」
「本当ですか!」
「ああ」
 甚壱は食い気味の応答に面食らいつつ、まず首を縦に振った。
 話が既に付いていることは伏せていたが、曖昧な蘭太の発言を質す気はなかった。甚壱とて蘭太くらいの年の頃には周囲に吹き込まれるあれこれからまだ知らぬ「女」を夢想したものだ。女を求めるのは男の本能で、世代が変わって変わるものではない。白々しい問いかけは無粋だった。
 蘭太の上気した頬を見ながら、甚壱は本来続けるつもりだった問いを口にする。
「蘭太の側はいいのか?」
「伯父は好きにするようにと」
 蘭太は意気込みを示すように大きく頷いた。
 筆下ろしの段取りは近縁の男が口を利くが、相手の選定は往々にして女の仕事だ。女の目利きと人脈が物を言うために、蘭太の頼みとは言え独身の甚壱には少々厄介な役目だった。
 甚壱は頼る先として、自分の筆下ろしをした女を思い起こす。寝物語に夫を亡くしたばかりだと聞いて、幼時に母にされて以来久しくなかった抱擁の中でまどろんでいた甚壱は驚き顔を上げたが、当の女は悲壮感もなくあっけらかんとしていた。男女の肉体の違いに驚いたばかりなのに、精神構造まで違うのかと混乱したことは、女の肌の柔らかさと共に記憶に刻まれている。
 女はその後他家に縁付いたが、先夫との子を禪院家に残しているために、消息はわざわざ尋ねずとも知っている。蘭太の相手はもう少し若いのを探すにしても、話をしてみて損はあるまい。蘭太は見た目も性格も申し分ない。順序さえ間違えなければ相手に困るはずがなかった。
 甚壱は自分が常になく楽観的になっていることを自覚しつつも、蘭太が自分と縁を持とうとしていることへの喜びを抑えられなかった。日頃頼りにされていると思えど、娘も妹も姪すらもいない身では関係を深めようがない。他の者の手前、折りに触れて寿ぐのがやっとだろうと思っていたから、用立てを頼まれたのは思いがけない幸運だった。
「分かった、確かに引き受けた。伯父御にもよろしく伝えてくれ」
「ありがとうございます! 必要なことがあれば言ってください!」
「大丈夫だ。すべてこちらで手配する。大船に乗った気持ちでいろ」
 甚壱が年長者の落ち着きを意識しながら答えると、蘭太は興奮に輝く顔をわずかに曇らせた。
「甚壱さんは……慣れておいでですか?」
 大船にと言った手前慣れていると答えたかったが、甚壱にとっても初めての試みだ。蘭太の素材の良さから楽観視しているものの、相手のある話で、下手に見栄を張るのは危険だった。
 甚壱は正直に首を横に振った。
「いいや、初めてだ」
「えっ! いいんですか!?」
「お前が俺がいいと言ったんだろう」
「そうです。その通りですけど、本当にいいんですか?」
「どうとでもなる。心配するな」
「ありがとうございます!!」
 驚きに目を丸くしていた蘭太は、額を畳に打ち付けるのではないかという勢いで頭を下げた。立ち去る時の足取りは、最初の躊躇いに満ちた時間は何だったのかと思うほど軽やかだった。

投稿日:2023年5月29日
蘭太「あのとき俺は誓いました。甚壱さんにははっきり言うと」
という感じで「今ここで殺るんだ!」の蘭太が培われていたらいいと思います。蘭太が甚壱にセックスしたいと頼み込むネタが好きすぎて何回も書いてしまう。