恋に供える
「遅くなった。呼び出したのに済まないな」
「いえ、とんでもありません」
蘭太は姿勢を正して言った。
およそ十分。蘭太が時計を確認したのも、いつも時刻通りの甚壱にしては珍しいと思っただけで、待たされたと思ってのことではない。
大抵の用は立ち話か、人伝の伝言で済まされる。わざわざ部屋に呼んだのだから、込み入った用件であるのは確実だった。蘭太は胡座をかく甚壱の足回りを見ないようにしながら、部屋に通されてからずっと頭にある「何の用だろう」を思い浮かべた。心当たりはなかった。
甚壱の胸を借りた性行為を行ったのは夏のことで、呪霊の発生もすっかり落ち着いた今は、いい夢を見せてもらったと思えるようになっている。肉体を繋げることで関係の変化を期待しなかったと言えば嘘になるが、甚壱が態度を変えずに接してくれることに、ありがたみを感じられないほど子供ではない。
と、障子の向こうから、女の声が聞こえた。
「入ってくれ」
静かに障子が開き、廊下に座した女が頭を下げる。和服姿であることは常の通りだったが、何度か甚壱の部屋を訪ねたことがある蘭太にも、見覚えがない女だった。
供される茶に、菓子。まるで蘭太が客であるかのような扱いだ。訝しむ蘭太など眼中にないように、女は甚壱の前にも同じものを並べると、来た時と同じように静かに部屋を辞した。
再び甚壱と二人きりになった部屋の中、音は聞こえないのに空気が震えているような違和感が残っている。甚壱は甘味を好まない。蘭太は食べるが、格別に好きというわけではない。客のためではなく、主人も手を付けないものが茶菓として供された不自然さか。菊の形をしたこなしを見ながら、蘭太は眉を寄せた。
「今の女、どう思う?」
「どうとは……」
「抱けそうか?」
蘭太は己の方に寄せられる菓子皿に目を落としたまま、唇をきゅっと結んだ。
動揺を押し隠して甚壱を窺い見るが、瞑想でもしているような半眼は畳の上に落ちたまま、蘭太の方を向かなかった。仕方なく、蘭太は甚壱が寄越した菓子皿を自分の手元に寄せた。鳥でも留まったか、夕暮れが近い黄みを帯びた日差しが満ちた縁の向こうで、庭木がかすかに揺れた。
「……俺の見通しが甘かった」
自責が滲んだ声音。逃避欲から庭の気配に気を取られていた蘭太は、はっとして甚壱を見るが、表情はやはり変わらない。
あと一呼吸を置けば、詫びの言葉を聞くことになる。
蘭太は予知にも似た予感に追い立てられ、口を開いた。
「俺、好きな人としかしたくありません」
遠くを見るようだった甚壱の目が、蘭太を見た。
「女は嫌いか?」
「……っ」
蘭太は答えに窮した。
甚壱は妻帯していない。妻帯していた過去もない。甚壱が結婚していないことは、蘭太が自分の欲望を、自分の中だけに収めておけなかった理由だった。
「先に食え。夕飯に差し支える」
菓子の一つや二つで、変わる腹ではないと知っているだろうに。
蘭太は顔色ひとつ変えない甚壱から目をそらし、菓子皿を取り上げた。
やけくそ気味に口に含んだこなしは、衝動を慰撫するように甘い。蘭太は黙々と咀嚼しながら、甚壱に言われるまでもない現実を思い起こした。
「いずれ妻を迎えなければならないことは分かっています」
蘭太は喉に貼り付くような甘さを、ぬるんだ茶で飲み下してから言った。
好きとか、嫌いとかいう問題ではない。歩む道の先にあるものだ。
甚壱への思いは菓子と同様に、思い出として飲み込んでしまうべきものだ。蘭太はたった一度だけ得た、そして幾度となく思い返した甚壱と交わる陶酔感が、暗がりに吸い込まれるように色をなくすのを感じた。
「分かっているならいい」
「ご心配をおかけしました」
「……心配していたのは俺じゃない」
蘭太が顔を上げたときには、甚壱はすでに立ち上がっていた。
退室を促されているのであってほしいという蘭太の願いも虚しく、甚壱は立とうとする蘭太を首を振って制した。
「今日は戻らない。好きに使え」
隣の部屋に、人の気配がある。女が去ってからずっとだ。
「承知しました。……お気をつけて」
蘭太は頭を下げた。
障子が閉まる音を聞きながら、場所を選んだのが甚壱でなければいいと思った。
- 投稿日:2022年11月20日