凪の生活

甚壱×架空の妻の性描写があります

 大人しい女だった。
 つまらないと言い換えてもいい。
 余人がするように躾けてやったと胸を反らす必要もなく、万事そつなく従順にこなす、誰の顔に泥を塗ることもない、利口な生き方ができる女だった。
 甚壱の意に染まないことはただひとつ。
 女が子を欲していることだ。
「もう少し……こうしていてくださいませ」
 吐息の隙間から密やかな声で求められ、甚壱は渋々女を抱く腕をそのままにした。顎をくすぐる髪からは、己の汗とは違う、甘いような匂いがする。
 挿し込んだままの自身に未だまとわりつく女の肉が、ごくりと、放った精を飲み込むように蠢く。
 ――脳裏をよぎった映像が、妄想にすぎないことは分かっている。それでも射精後の虚脱感とは異なるものが、汗と共に背中を伝い落ちていく。
 甚壱は女を突き放してしまわないよう、抱擁する腕に力を籠めた。抱いていて不安になる、柔らかで手応えのない細い体だ。
 女の行動に誤りはない。子を成すことは、禪院家の在り方から言っても重要な仕事だった。しかし頭で分かっていても、体が反応していても、何か置き去られたような寒々しさが常にある。
 心臓が軋むのは、興奮によるものではない。
 甚壱は腹に、呪力を練り上げる核とする部分に意識を集めた。

 己のものが用をなさなくなったことは意外ではなかった。一度目、二度目は気遣わしげな言葉をかけてきた女も、三度目ともなると表情に険しさが出る。甚壱はそれでもなお務めようとする女を制すると、先に休むよう言い残して寝床を抜けた。
 女の声が背後で聞こえたが、振り返らずに後ろ手に障子を閉める。自分の部屋だ。戻る気はあった。
 外廊下を照らす月は明るく、床板は冷たい。生き物の気配のない冴えた空気は、ガラスの中に入り込んだようだった。

 日を空けずに対話を持ったのは、甚壱なりの誠実さだ。昨日の今日で、女は目に見えて疲れていた。
「原因は俺にある。お前の親と、他に必要なら必要なだけ、俺の責任だと話して構わない」
 甚壱は不安を和らげてやるつもりで腹積もりを明かした。
 甚壱が五体満足で生きている今、子がいないことが不利に働くことはない。術師という生業の都合「もしも」は現実と近しい位置にあったが、甚壱の財産と今日に至るまでの禪院家への貢献を織り込めば、女が暮らしに困ることはないはずだった。
「お暇をくださるおつもりですか」
「いや」
 甚壱が否定すると女は怪訝な顔をした。
「これからも妻として俺のもとにいてほしい」
 女を去らせれば、いずれまた新しい女を宛てがわれ、子を作ることを再び求められる。果たせないというのは子ができない理由としては弱く、房事を除けば女の行状に不満はないのだから、現状を維持したかった。
 直毘人が子沢山なのは好き者だからと思っていたが、直哉の後は生まれていない。自儘に見える叔父に、久しぶりに尊敬の念が湧いた。
「……私は、あなたの子を産みたいと思っております」
 女の口から、不服とも取れる意見を聞くのは初めてだった。甚壱は驚きに目を見張った。
 血の気のない白い頬を見て、母の姿が頭をよぎる。自分だけの母親だった頃の母がどんな顔をしていたか、思い出を手繰ろうにも記憶はおぼろげだ。
 生まれた子の出来による人生の振れ幅は、女の身で耐えるには大きすぎる。不意に打ち寄せた懐旧の念を振り切るために、甚壱は首を振った。
 家に残る女にとって子がないことは寂しいかもしれないが、先の見通しが立てやすいと考えれば、悪いばかりではないだろう。どうしても何か育てたいならのなら犬でも飼えばいい。
「悪いが、知っての通りだ」
 舅は何と言うだろうか。甚壱が子を産ませたくないと知っていれば、娘は呉れなかっただろう。甚壱は妻よりも舅との付き合いの方が長い。顔を合わせるのは気が重かった。
 思索の隙間に衣擦れの音が入り込む。
 見れば女が手をつき頭を下げていた。
「さようでございましたらどうか、他の方をお迎えください」
「……縁を切りたいと?」
 女の側から言い出すとは思っていなかった。
 威圧したつもりはなかったが、愛想のなさは折り紙付きだ。女は怯んだ様子を見せたが、余程の覚悟で言ったのだろう。引き下がらず、小さな声で「はい」と答えた。

   ◇

「うちって離婚できたんですね」
 若い女の発言はいつも藪から棒だ。
 体つきこそ年頃の娘らしいしなやかさがあったが、立ち居振る舞いはまるで子供で、甚壱は給仕を受ける度に場末の食堂にでも来た気分になる。一時は扇の妻が来ていたが、産まれた子が双子で手がかかるというので役を降り、今は代わる代わる別の女が来る。
 有無を言わさず山盛りにされる飯茶碗から目をそらし、甚壱は女を見る。甚壱の視線を受け止めた黒目がちの瞳は、好奇心にきらめいていた。こうも真っ直ぐに男の顔を見るようでは先が思いやられる。
「すごくきれいな方がいらしてたんです。聞けば甚壱さんの奥さんだった方だと」
「誰に聞いた?」
「内緒です」
「……」
「大丈夫ですよ、いくら私でも御本人には聞きません」
 女はころころと笑った。笑い方まで子供のようだった。
 女の素行を断片的ながら知っている甚壱は一瞬怪しんだが、本人にしろ他人にしろ、素性を明かすなら親の名前と続柄を答えれば済む。直接聞いていないというのは本当だろう。甚壱の名前を出した誰かも、世間話がしたかっただけに違いない。夫婦だったのは随分前の話だ。不意を打たれたせいで、取るに足らないことに余計な勘繰りをした。
「お元気そうでしたよ」
 甚壱が何も言わないうちから女は意気揚々と報告した。
「聞いていない」
「すみません。難しい顔をしていらしたからご心配なのだとばかり」
「この顔は元からだ」
 女は何が楽しいのか笑顔のまま、軽い礼をして立ち上がった。
 あからさまな興味を表に出しておきながら事情を聞いてこないのは、その程度の慎みはあるということか。何の気なしに目で追うが、女は甚壱の方を見ず、目を伏せたまま障子を閉めた。
 一人残された部屋で、甚壱は漬物の小皿に目を落とした。今日は赤かぶだった。
 女の用件は年始の挨拶だろう。毎年来ているのかもしれないが、来訪を知ったのは初めてだ。一時は舅となった男の葬儀で遠目に顔を見たきり、話にも聞いていない。さすがに禪院家の中で再嫁するとはいかず他家に出されたが、出戻らない程度に上手くやっているらしかった。
 甚壱は汁椀に口をつけた。松の内とはいえ空気は平時と変わらない。三が日が過ぎ、雑煮でなくなったのが何よりもいい。
 双子にまつわる曰くを耳にしたのは扇の妻の腹が目立ち始めた頃だった。生まれてしまうと扇に遠慮してか聞かなくなったが、扇はよく産ませたものだと思う。見かけた顔は夫婦共に暗かった。
 炊いた薄揚げと壬生菜をまとめて口に入れる。
 妻だった女は、元気そうという印象を受ける女ではなかった。給仕の女が言ったのは愛想か、それとも真実か。確かめる機会はない。女が子を得られたのかも、考えても詮無いことだった。
 妻がいなくとも、日々の用は足りている。手放したことは、少なくとも甚壱にとっては正しい選択だった。

投稿日:2023年4月7日
1/31にTwitterにスクショ投稿したネタメモから広げました。子供が欲しくなさすぎて勃たなくなる甚壱が見たいです。禪院家という共同体における家庭のあり方や結婚の意義は謎が多い。
私生活(?)で会話のない甚壱が持て余した言葉や面倒見のよさが、たまに転び出て躯倶留隊にクリーンヒットしていればいいと思います。