たぶん二度目もある

 背後で障子が閉まり、部屋がわずかに暗くなる。蘭太は案内を務めた女が階段を下りる小さな軋みを聞きながら、今いる次の間と主室の間を隔てる襖を見据えた。
 幾度となく訪れている甚壱の屋敷だったが、離れの二階に上がるのは初めてだ。初めて来た場所に対する緊張と子供じみた好奇心が、ただでさえ張り詰めている神経に負荷をかける。
 セックスがしたいと、言い出したのは蘭太だった。
 実現した時のことなど考えていない。年上の、そして目上の男を抱きたいという土台無理な頼みだ。断られて、それで終わりだと思っていた。
 何の思惑があってかそれを容れ、お膳立てをしたのは甚壱だ。
 身一つで来いという言葉に従って、指定された日、時間に、蘭太は甚壱を訪ねた。何をするのかということははっきりしていたが、散々想像していたくせに、手順はあまりにも心許ない。自分が望んだことだと、甚壱を待たせていると、後戻りできないと分かっていながら、中に入れないのはそれが理由だった。
 そうこうしているうちに、雨が屋根を叩くパラパラという音が聞こえ始めた。来しなに見た遠くの空は黒々とした雲に覆われていた。ほどなく大雨になるだろう。晴れた日ならばガラス障子からの日差しが障子を透かすのだろうが、背後と右手の二方に障子があるというのに、部屋の中は夕方のような暗さだ。
 果たしても、このまま帰っても、甚壱に合わせる顔はない。
 蘭太は息を整え、引き手に手をかけた。

   ◇

 屋根を打ち破りそうなほど激しかった雨音は、いつの間にか静かになっていた。
 蘭太は大きく息を吐いた。
 射精を終え、放った熱と入れ替わりに、ひたひたと忍び寄ってくる不安にも似た感覚。噴き出した汗が流れ落ちるのに妙な冷たさを感じる傍ら、甚壱の体に夢中になるあまり忘れていた蒸し暑さが、膜のようにまとわりついてくる。
 不快感を振り払うべく、蘭太は強く瞑目した。
 甚壱の体を割り開き、望むままに腰を振る。無体としか言えない行為が叶うのは、甚壱がそれを許しているからだ。あれこれ考えるのは、今この時にすべきことではない。
 目を開き、顎を上げると、脇腹を布団に押し付けるようにして横たわっている甚壱が、蘭太の目を見返した。滅多なことでは感情を露わにしない顔にあるのは、間違いなく疲労の色だ。
 蘭太は慌てて腰を引きかけたが、はっとして動きを止め、コンドームの口を手で押さえた。
 甚壱は男だし、そうでなくとも禪院家の人間だ。精液が漏れたからといって大事に至ることはなかったが、甚壱の体をこれ以上汚すわけにはいかなかった。
 何もかもスムーズに運べない。蘭太は自らの情けなさに唇を噛みながら、甚壱の体から自身を引き抜いた。
 甚壱の胸が静かに沈む。部屋の空気と、体が緩むのを感じる。
 勢いこそ衰えたものの、雨はまだ降り続いているようだった。風でも吹いたか、かすかに聞こえる雨音の調子が少しだけ変わって、再び戻った。
 何と声を掛けたものか。
 甚壱を前にした時の習い性で、自然と姿勢を正していた蘭太が本格的に迷い出すより前に、枕に頭を預けていた甚壱は肘を立て、体を起こしにかかった。
 普段ならば意識することもない動作だろう。腰を立てる瞬間、乱れた髪の陰で雄々しい眉が寄せられる。
「じんっ――」
 蘭太は思わず腰を浮かせたが、皆まで言う前に目で制されて、すごすごと元に直った。
 じっとりとした布団の上に腰を落ち着けた甚壱は、鬱陶しそうに後ろ髪を掻き上げた。
 体の違和感を気にしているのか、上の空の感のある気だるげな表情。薄暗い中に見る隆々とした肉体は普段よりも陰影が深く、肌を濡らした汗が艶めかしさを添える。
「……っ」
 蘭太は甚壱の姿を、まるでその場にいない人を見るように無遠慮に見ていることに気がついて、釘付けになっている自分の目を無理やり引き剥がした。目をそらすだけでは足りないと思ったが、事後早々にそっぽを向くのは流石に不調法だ。
「……蘭太」
「はいっ!」
 呼ばれた蘭太が顔を跳ね上げると、甚壱の口元がかすかに歪んだ。それを笑ったのだと判じられる程度に、蘭太は甚壱の表情の変わらなさを知っている。
「物足りないか?」
「いいえ!」
 蘭太は慌てて首を振った。
 見顕されるほど表に出ていたことを恥じて伏せようとした顔の前に、甚壱の手が差し伸べられる。抗いたいと思えどできないまま、蘭太は再び顔を上げた。その顎に、甚壱の手が添えられる。
 ざらりと粗い手指の感触。鋭敏になっている皮膚感覚のせいで、直に触れていない手のひらの温度までもが伝わってくる。
 蘭太は困り果てた。甚壱が目の前にいるというだけで、蘭太の都合などお構いなしに、記憶が白昼夢の押しつけがましさで蘇ってくる。意識を他に散らそうにも、甚壱の汗の香りは近すぎた。覗き込んでくる甚壱の目に情欲が欠片でも見えれば気が楽だったが、あるのは底の見えない黒玉だ。
 蘭太は初めて任務にあたった時にだってなかった泣きそうな思いを抱えて、甚壱の目を見返しながら、どうにかして部屋の外にあるはずの雨音に集中しようとした。
「蘭太」
「ハイッ」
 反射的に出した声は裏返っていた。
 甚壱は蘭太の顔を解放して、手を下ろした。
 蘭太は突きつけられていた白刃が下げられたような気持ちで、力の抜けそうになる体に気合いを入れた。すっかり混乱していたが、臍より下の状態に大きな変化はないはずだった。
「満足できたのならよかった。……風呂を使って行け。用意は隣にある」
 甚壱は蘭太が入ってきた襖に目を向けた。
 釣られて首を向けた蘭太は、閉ざした襖の向こうの部屋について、案内を受けた時のことを回想した。
 日頃使っていないらしい、こざっぱりとした部屋だった。緊張で観察どころではなかったが、確か四畳間、収納というものはなかったように思う。
「気づかなかったか?」
「……?」
 分からないまま顔を甚壱に戻すと、甚壱は今度もまた笑っているようだった。
「最中に一度、隣に小間使いが来た。集中を乱すことにならなくて何よりだ」
 蘭太はぱくりと開けた口を閉じて、視線を泳がせた。切望していた甚壱の体すら、終わって初めて見られたような状態なのだ。人の気配になど全く気づいていなかった。
 脱ぎ散らかしの着物を引き寄せ、甚壱は膝を立てた。蘭太が心配する暇もなく立ち上がると、手早く着物を巻きつける。見上げる蘭太を見下ろして、顎をしゃくった。
「来い。背中を流してやろう」
「はっ、はい!」
 蘭太は立ち上がりながら自分の着物を手繰り寄せた。
 雨の音はもう、聞こえなかった。

投稿日:2022年7月31日