酔っ払いたち

「何か祝いをやりたい」
 盃を傾けながら、何気ない口調で甚壱は言った
「そっ……」
 蘭太は自分の声が思ったより高かったことに気づいて声を潜めた。
 声は宴もたけなわという言葉通りにさんざめく空気に紛れて消えたが、甚壱のそばというのは人目を引く。甚壱に遠慮したのか、飲める年齢になったということでひっきりなしに受ける羽目になっていた酌が途絶えたのはありがたかったものの、気が抜けないという点では変わりなかった。
「いただけません」
 素早く、強く、一往復だけ、蘭太は首を振った。
 遠慮するなと言われるのが分かっていて、きっと甚壱の顔を見上げる。
「特別扱いを受けるわけにはいきません」
 今の今、炳の一員と認められてから、同輩との距離が遠くなったとこぼしたばかりだ。甚壱の配慮が足りないと言ったように取られても仕方ないタイミングだったが、言わずにはいられなかった。
 蘭太にとって、禪院家の外の世界などないも同然だ。気にしないようにしているものの、寂しくなる瞬間を上手くやり過ごせない。炳になり、二十歳になった。もう子供ではないのだからと自分を叱咤しても、ささいなことを語り合える相手を失ったことはつらかった。
 甚壱はくつくつと笑った。
「他の奴にもやっている。気にするな」
 蘭太は頬がかっと熱くなるのを感じた。
 言われてみれば当然のことだ。どうして自分だけだと思ってしまったのか。羞恥のあまり、顔から火が出そうという比喩をまざまざと体感する。
「だが……前は直哉だったし、躯倶留隊の場合は信朗に金を持たせている。特別扱いと言えばそうだな」
 蘭太が言い訳も思いつかないでいるところに、甚壱は付け加えた。
 入れられたフォローに気の利いた言葉の一つも返せず、むしろ気を遣わせたことを恥ずかしく思いながら、蘭太はくっと干された甚壱の盃に酒を注いだ。
 相当な量を飲んでいるだろうに甚壱の顔色は変わらない。甚壱に差してもらっておきながら一向に減らない自分の盃を気まずく思うが、これ以上飲むと吐いてしまいそうだった。
「――蘭太」
 甚壱は蘭太の方に視線を流した。
 怜悧な眼差しにどきりとして、蘭太は背筋を伸ばした。
「特別扱いに慣れろ。炳だということは、特別なことだ」
「……はい!」
 さっきの今だ。声を張りすぎないように気をつけながら蘭太は返事をした。胸が熱いのは酒のせいだろうか。いや、甚壱から言葉を掛けられて励まされない者がいるだろうか。
 蘭太は体ごと甚壱に向き直った。
「禪院家の名に恥じないよう頑張ります!」
「それは当主に言ってやれ」
 甚壱はあくまで冷静さを崩さず、首座で酒をあおる直毘人に目をやった。言う通りにすべく立ち上がろうとした蘭太の腕を引き、「今でなくていい」と引き止める。高まった熱をやり過ごせずに、蘭太は号令を待つような気持ちで甚壱を見る。甚壱に首を振られ、腰を落ち着ける。
「欲しいものはあるか?」
 蘭太は「甚壱さんは急に何を」と思ってから、祝いをやりたいと言われたことを思い出した。辞退しようとして、そのやりとりを済ませたことも蘇り、思考が立ち行かなくなる。蘭太は甚壱の顔を見ながら瞬いた。
 あまり人の顔をじろじろ見るものではない。
 耳の奥で聞こえた常識に促され、目をそらして考えようとするが、何も思いつかなかった。酒のせいか、頭の中にぽかりと色のない空白が広がっている。鈍い思考に焦りを感じたところで、呼び起こすように甚壱に肩を掴まれる。
「平気か?」
「はい。すみません……」
「返事は今でなくていい。酒はもうやめておけ」
 甚壱の手が蘭太の膳から盃を取り上げる。遠ざかる盃を見て蘭太はホッとした。甚壱と話している一時のことにせよ、飲まなくていいのはありがたかった。
 しかし飲む酒がなくなると手持ち無沙汰の感がある。甚壱の盃はまだ中身があり、目まぐるしく人の動く宴席で、蘭太にこれといった役割はない。景色と音が遠い。鈍い頭痛と眠気。
 蘭太はぎゅっと目を閉じ、再び開いた。いつからだろう。自分の呼吸が寝入り端のように緩慢で深いものになっている。張り詰めていた気が緩んだせいか、今横になると眠ってしまいそうだった。
 蘭太はまだ隣にいるはずの甚壱を見た。甚壱は変わらず隣にいたが、蘭太の知る甚壱は無表情で無愛想だ。目に映る甚壱が心配しているように見えるのは、酔いが都合よく見せた幻かもしれない。
 気をつけていないと姿勢も視点もすぐにぶれる。蘭太は礼を失することないよう腹に意識を集めた。腿の上に手を置いたが、もはや自分の輪郭すら心許ない。
「甚壱さん、本日はありがとうございました。少し失礼して顔を洗ってきます」
「そのまま部屋に戻って寝ろ。皆には俺から言っておく」
「いえ、大丈夫です。まだ」
「蘭太」
 子供を諭すような声音だった。普段と違う穏やかさが逆に抗いがたく、判断を委ねてしまいたいような、そんな気分にさせられる。
「――なんだ蘭太もう行くのか」
「……!? 当主!」
 蘭太が驚き目を見開く一方で、甚壱は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「蘭太、いいから行け」
「冷たいこと言うなよ、甚壱。どうも、当主です。蘭太は直哉のパパの方が馴染みがあるか?」
 直毘人は甚壱と蘭太の脇にどかりと座り込んだ。畳に直に座ったものだから、慌てた蘭太は座布団を差し出そうとするが、手を振って断られる。先ほどまでの酒気はどこへ行ったのやら、高鳴る心臓に酸素を供給されて、蘭太の酔いは完全に冷めていた。
「用があるのは甚壱だから行ってもいいが、聞いておいても損はないだろうな」
「はい! 後学のために拝聴いたします!」
「……お前いつもそんなに堅いのか? 直哉と上手くやれてるか?」
 直毘人と直に話したのは炳になった時が初めてなくらいで、直哉の父親というのも知識があるだけで馴染みがない。この気を遣うべき状況でもとても「はい」とは言えず、蘭太は目を泳がせた。
 蘭太の様子を見た直毘人は今度は甚壱を見る。
「あいつ友達いないのか?」
「あなたが一番ご存知でしょう」
「性格悪いからな。俺とアイツどっちに似たんだか。なぁ?」
「……」
 蘭太は沈黙した甚壱と薄ら笑いを浮かべた直毘人の顔を見比べた。アイツとは直哉の母親のことだろうか。直哉の性格に関するコメントはもちろん、直毘人の妻に対するコメントも差し控えたい。どうか話を振られませんようにと願いを込める。残ったことが早くも悔やまれた。
「それはそうと甚壱、あまり若いやつを誑かすな」
「はぁ……」
「変なところばかり父親に似やがって。叔父さんは心配ですよっと」
 直毘人は置かれたままのビール瓶を拾い上げると、中身が残っていることを確認して直に口をつけた。未使用のコップが見える範囲になく、蘭太は為す術もなく底が上向いていくビール瓶を見つめる。
 ビールを飲み干した直毘人はしばらくしてから盛大なゲップをした。
「蘭太君!」
「はい!」
 直毘人に呼び掛けられ、蘭太はびしりと背筋を伸ばした。伸ばせるということは曲がっていたということだ。気を抜いた意識のなかった蘭太は冷や汗をかきながら直毘人の言葉を待つ。
「直哉と仲良くしてあげてね」
「は……はい!」
 蘭太の返事を聞いたのか聞いていないのか、直毘人は億劫そうに立ち上がると、上座ではなく廊下の方に去っていく。
 障子の向こうに消える背中を見送った蘭太は甚壱の方に顔を戻した。後学のためと言ったものの、直毘人と甚壱の会話のどこに学ぶ要素があったのか分からない。蘭太の知らない人間模様が垣間見えたくらいだろうか。
 酔いが冷めたせいか、直毘人が来るまでのふわふわした気分が霧散している。読んでいる本のページが抜け落ちていたような、早送りと間違えてスキップボタンを押したような、何らかの術式に掛かったような気分だった。
 甚壱は仕切り直すように溜め息をついた。
「すまないな、蘭太」
「いえ」
「欲しいものは考えておいてくれると助かる」
「はい。……あの」
 どうした? と言うような甚壱の目が向けられる。やはり酒が抜けたせいか、先ほどまでの甚壱とは雰囲気が違う気がした。もしかして甚壱さんも酔っていたんだろうか、と蘭太は考える。
「スマホを買いたいと思っています。今使ってる回線も親が契約したものなので、改めて契約を」
「分かった」
「ああ! 違います! スマホを買ってほしいんじゃないんです!」
「なぜだ?」
「高いですよ」
「そんなにか」
「……甚壱さんにはそうでもないかもしれませんが、買っていただくのは気兼ねする価格です」
「そうか」
 釈然としない様子の甚壱に、蘭太は「そうです」と念押しするために頷いた。
「買ったらご連絡するので、甚壱さんの連絡先を教えてくださいませんか? お酒の飲み方を教えていただきたいです」
「……二つねだられたのは初めてだ」
「あっ!」
「冗談だ、構わん」
 言われて気づいて焦る蘭太に、甚壱は首を振った。

投稿日:2023年5月2日
普段はそうでもないけど酔うと人誑し力が上昇する甚壱はありでは? という思いを込めました。二十五代目当主は常時人誑しだといいと思います。
更新日:2023年5月13日
直毘人の「兄貴に似やがって」を「父親に似やがって」に変更。直毘人にとっては人の親な二十五代目より自分の兄な方が感覚として強いと思って兄貴にしていたのですが、分かりにくいと思ったので。