大人にしてください

「早く一人前になって甚壱さんのお役に立ちたいんです」
「へぇー」
 術式があれば躯倶留隊への入隊義務はなく、訓練への参加ももちろん必要ない。酌をしに来た蘭太に尋ねて返ってきた、術式があるにも拘わらず過酷な訓練に参加する理由が予想通りすぎて、信朗はらしくもない間の抜けた相槌を打った。蘭太は自分の殊勝すぎる台詞に違和感を抱くことはないらしい。上座に座る甚壱を見つめる横顔は『憧れ』というタイトルをつけてコンクールに出展しても良さそうな位にきらめいている。
 小さな子供という可愛さがある上に、己を先輩として扱ってくれる蘭太のことを、信朗は憎からず思っている。蘭太に言った「苦労しなくてもいいだろうに」という言葉は、術式がないために少しばかり多めに苦労している信朗の本心だったが、こうも混じり気のない出来の良さを見せられると、悪戯心も湧いてくるというものだ。
「なぁ、すぐに役に立てる方法を教えてやろうか?」
「本当ですか?」
「嘘は言わねぇよ。いいか、お前このあと甚壱におやすみなさいを言いに行くつもりだろ」
「はい」
 宴会は深更まで及ぶことがザラなため、ある程度の年齢までは出席の時間が区切られている。残っていたとてお咎めはないが、酒に飲まれる大人が刻一刻と増えていくだけで特におもしろみはなく、ほとんどが定刻に席を立つ。子供以外の退席は個人の腕前次第だから、退出するきっかけを探してキョロキョロする立ち回り下手を眺めるのもなかなか乙なものだ。
 信朗は甚壱が席にいることを確認してから、喧騒に紛れてしまう程度に声を落とした。
「その時に甚壱に『大人にしてください』って言ってみな」
「大人にしてください?」
 声を潜めた信朗につられたか、復唱する蘭太の声も小さくなる。
「甚壱さんはそんなことができるんですか?」
「できるできる。するかは甚壱次第だけどな」
「……分かりました」
 信朗の思惑など知らず、神妙な顔で蘭太は頷いた。もう一杯酒を注ぎ、それからぺこりと頭を下げて立ち去ろうとする蘭太に、信朗はいい大人ぶって念を押す。
「甚壱に言う前に他のやつに言うなよ」
「言いません。甚壱さんがいいです」
 それもいい台詞だな、と思いながら小さな背中を見送った信朗は、自分の名前を出すなと言い忘れたことに気づいたが、逆隣から肩を組まれた拍子に、抱いた危機感は脳からかき消えた。

   ◇

 退席の挨拶を終えた蘭太が何やら言い淀んでいることに気づいて、甚壱は直毘人に中座を申し入れに行った。宴もたけなわ、注いだり注がれたりで席はあってないような状態になっていたが、ひっきりなしに酌人が回ってくることもあり、直毘人は当初の位置から動いていない。
 持ってこさせたのか、見覚えのない酒樽を隣に座らせている直毘人は、盃から口を離したくないらしい。さっさと行け、というジェスチャーだけを返した。
 甚壱は一礼してから自席に戻ると、代わりに座らせていたせいで「えらく可愛くなったもんだな、甚壱」などと絡んでいる酔っぱらいから蘭太を取り上げた。
「いちいち相手しなくていい」
「はい」
 上がる抗議を無視して広間から出る。障子一枚を隔てただけなのに、人のいない廊下は随分と涼しく感じた。
 宴会の盛り上がりを遠くに聞く位置に来てから抱き上げていた蘭太を下ろすと、蘭太が申し訳なさそうな顔で見上げてくる。抱えたままの方が聞きやすかったかと考えたが、もう一度抱き上げるのもおかしいと、立ったまま蘭太が切り出すのを待つ。
「甚壱さんはお忙しいのに、すみません」
「構わん」
 袴の腿のあたりを握っていた蘭太は、決然と顔を上げた。
「俺、甚壱さんに大人にしてほしいです」
 甚壱が真っ先に思い浮かべたのは、誰の差し金かということだったが、今必要なのは犯人探しではない。甚壱が纏う空気の変化を感じ取ったか、蘭太の瞳がかすかに揺れる。それでも立ち去ることはもちろん、目をそらすこともしなかった。
「意味が分かって言っているのか?」
「意味……」
「聞き方が悪かった。どうしてあの場で言わなかった?」
「甚壱さんはお忙しいので、何かしてほしいと言うのは迷惑になるんじゃないかと思いました」
 蘭太は確実に、自分が口にした言葉がどういう意味で受け取られるかを分かっていない。そのことに一安心した甚壱は、自分の考えは話せるだろうと質問を重ねる。
「お前の思う大人とはどういうものだ?」
「……自分のすることに責任を持てる人です」
「俺がお前に何かして、そうなれると思うか?」
 ごく小さな声で、蘭太は「いいえ」と答えた。
 俯いてしまった蘭太を、甚壱は抱え上げた。酔いが覚めたせいか、それとも蘭太が眠くなってきているのか、素直に預けられた体温は先ほどよりも高く感じる。
「結果を予想しないことと、予想が外れることは違う。どうなるかを一つも考えられないのなら、行動するのは待ったほうがいい」
「ごめんなさい」
「謝ることじゃない。部屋まで送ってやるから、歯を磨いて寝ろ。寝た分だけ大人に近づく」
「はい」
 長い廊下を歩き出した甚壱は、蘭太を自分の部屋に連れ帰って、反応から仕掛けた人間をあぶり出すことを考える。出しにすることで蘭太に及ぶ影響と、今でさえ面倒になりかけている宴席への戻りが億劫になることがネックだった。
 甚壱が目をこすっている蘭太を見ると、蘭太は眠くないと主張するようにしっかりと目を開けた。
「大人になる方法は誰かに聞いたのか?」
「信朗さんから聞きました。大人になる方法じゃなくて、甚壱さんのお役に立つ方法です」
「そうか」
 甚壱が視線を外すと、蘭太の体が安心したように弛緩した。
 害意がないことが分かり、宴席に戻る理由もできた甚壱は、廊下を歩く足を速めた。

   ◇

 甚壱がいないことに気づいた信朗は、索敵よろしく周囲を確認した。
 時間を考えれば蘭太がいないのは当然だったが、蘭太に吹き込んだ冗談を思い出すと、二人揃っていないということに否が応でも不安を掻き立てられる。
 甚壱とは長い付き合いだ。それなりに冗談が通じて、いくら誘うようなことを言われようと年端のいかない子供に手を出さない分別があることは知っている。
 何も知らない蘭太にろくでもない台詞を吹き込んだのは、酒の席だからこその戯れだ。しかし一方で、酒が入っているからこそ、万一ということが大いにあり得た。
 なんでもないふりをして部下に尋ねると、別のところから、便所から帰る途中に歩いているところを見たと返ってくる。向かった先は東か西か。甚壱の部屋なら大問題だ。
 さらに行き先を尋ねようとしたとき、ひやりと冷たい風に首筋を撫でられたような感覚があった。
「信朗」
「お、おう! 甚壱か! どうしたんだいこんな下座まで」
「随分な贈り物をもらったから礼を言わねばと思ってな」
 地を這うような声は気のせいか。隣に腰を下ろす甚壱は、全くいつも通りのご様子だ。
「俺お前に何かやったっけ?」
「……あれはお前にとって、忘れるほどどうでもいいものだったか?」
 甚壱は膳の上の銚子を取り上げ酒を注いだ。その動作に荒さはなかったが、向けられた目には研いだ刃物のような凄みがあった。術式通り叩きつけるような気迫を発するタイプの甚壱が、こういう静かな怒り方をするのは珍しい。
 現況を把握するために、信朗は悪あがきと知りつつも周囲を探ったが、周りは「またか」という軽い受け止め方をしている。甚壱の術式は面制圧に向いているが、対象を絞れないわけではない。それを今、身をもって実感している。
「イエ……そんなことはないデス……」
「分かっているならいい」
 蘭太を送り出してから何分経ったか。時計は生憎視界とは逆側で、そもそもスタートの時間を確認していない。飲んでいるときの体感は当てにならないし、唾を付ける程度にいたずらするくらいなら時間は必要ないだろう。
 蘭太は無事なのか。いっそ聞いてみるかと目を上げると、減ってもいない酒を継ぎ足された。

投稿日:2021年6月11日
大人にしてください
投稿日:2021年6月11日
その後の信朗
更新日:2023年3月1日
サイト改装に伴い二作を合体させました。信朗編を前の話に馴染ませるために少し手を入れています。蘭太は無事です。