花いちもんめ

 三匹目の金魚はポイの紙を破って逃げていった。
 金魚すくいに集中するあまり、聞こえなくなっていた祭りの喧騒が耳に戻ってくる。
 寂しいとも悲しいともつかない気持ちに胸の中を占められる前に、頭を撫でてくる大きな手に気を取られた蘭太は、手の主である甚壱を見上げた。甚壱がしゃがみこんでいるおかげで、甚壱の顔はいつもよりずっと近くにあった。
「……金魚が逃げる」
 甚壱は一瞬だけ蘭太の目を見ると、蘭太の手にあるボウルに手を添えた。意識をよそに向けたせいでボウルが傾き、せっかく取った金魚ごと水をこぼしそうになっている。蘭太が慌てて両手でボウルを支えると、とぷんと揺れた水に乗った金魚は、屋台の屋根から吊り下がった電球の光を受けながら、何事もなかったようにボウルの縁に沿って泳ぎ始めた。
「持って帰るか?」
 賑々しい中でも、甚壱の声は不思議とよく聞こえた。
「いいんですか?」
「ああ」
「持って帰りたいです!」
 蘭太の答えに頷いた甚壱は、夜店の店主に蘭太の手から受け取ったボウルと枠だけになったポイを渡す。店主はポイを足元の箱へ、金魚をビニール袋へと手早く移し、ビニール袋を蘭太に向かって差し出した。甚壱に促された蘭太は手を伸ばし、受け取りながら店主に礼を言う。
 細い紐で支えられた水の重みと、ボウルの中にいた時よりも落ち着きなく方向を変える金魚。テントの垂れに当たらないよう腰を屈めた甚壱は、金魚に見入っている蘭太の背中に手を当てた。
「行くぞ、蘭太。落とすなよ」
「はい。あの、甚壱さんっ、ありがとうございます!」
 夏祭りに来るのは甚壱の発案だった。見回りのついでだと言うが、呪霊が発生しているかも分からない時点での見回りなど、特別一級術師である甚壱がする仕事ではないことは蘭太でも分かる。かといって甚壱は祭りを楽しんでいるようには見えないし、家の者が引率した前週の祭りに風邪で行けなかった蘭太のためというなら、それこそ甚壱の仕事ではない。明確な理由が分からないまま、蘭太は意識的に追いかけなければすぐに距離が開いてしまう甚壱の後を小走りに付いていく。
「水槽を用意しなければならないな」
「お庭に放すんじゃないんですか?」
「鯉に喰われていいならそれでもいいが」
「ええっ」
 鯉が金魚を食べると思っていなかった蘭太は、池の畔から見る鯉の、餌を求めてぱくぱくと動く口を想像して顔を青くした。
「コイ……金魚食べるんですか……?」
「嫌なら大きくなるまでは別にしておけ」
「はい! ……じゃあ……どこに置こう……」
 与えられている部屋には水槽を置けるほどのスペースはない。蘭太は邪魔にされなさそうな場所をあれこれと思い浮かべては、否定するのを繰り返す。禪院家の敷地は住んでいる蘭太ですら端を知らないほどに広かったが、蘭太が立ち入っていい場所すら少ないのに、水槽を置く許しが得られそうな場所となるととても思いつかない。
「俺の部屋でいいだろう」
「えっ」
 往来の真ん中で足を止めそうになった蘭太を、甚壱は間髪入れずに抱き上げた。急な上昇に驚いて、蘭太はとっさに甚壱に掴まった。ぶらつく下駄を落とさないよう、鼻緒を足の指でぎゅっと締める。
「ここで止まると危ない」
「ごめんなさい」
 チラと周りを見ても、抱かれているのは自分より小さな子供ばかりだったが、降ろしてもらうには足を止めなければならない。蘭太は大人しく甚壱の腕に収まることにして、掴んだせいで乱れてしまった甚壱の襟をせっせと直す。甚壱はしばらくされるがままになっていたが、やがてじっとしていろとばかりに抱え直された。
 蘭太は遠ざかっていく祭り囃子を聞きながら、屋台の提灯に縁取られた道をまっすぐに見て、それから甚壱の横顔を見た。
「お部屋、いいんですか? 庭の隅っことか……」
「構わん。庭は面倒が起きやすい。世話はできるな?」
「……はい!」
 強くなるためにがんばれますように――。
 夜店を見る前に足を運んだ、ご利益など信じていない形だけの参拝では、いつもと同じことを願った。
(甚壱さんと一緒に働けたら、それはすごいことだ)
 まだ使いこなせていない自分の術式と、話の上でしか知らない甚壱の術式を並べて考える。役に立てるかは分からなかったが、呪術師になるという当たり前ながらも漠然としていた将来が、少し具体的になった気がした。
 蘭太は甚壱から目を離して前を向く。甚壱と同じ高さで見る景色は、普段見ているものよりも広々と開けていた。

   ◇

「棚も含めてお前のものだ。好きに使え」
 通された奥の間で、緊張で立ち尽くす蘭太に甚壱は言った。部屋との調和が第一に考えられているのだろう。水槽台となっている、深い茶色の中に落ち着いた艶を宿らせた木製の棚は、お前のものだと言われても全く実感が湧かない。
 蘭太は着物の腹のあたりをぎゅうと握りながら、隣に立つ甚壱を仰ぎ見る。小ぶりな水槽とはいえ、余計な物がない部屋の中では異質な存在感を放っている。金魚との再会を喜ぶよりも、本当に部屋に水槽を置いていいのかという方が気がかりだった。
「開けてみろ」
「はい」
 甚壱に顎をしゃくって示されて、蘭太は床脇に置かれた水槽台まで進んで膝を突くと、おずおずと棚の下部に付けられた引き違い戸を横に滑らせた。
 薬入れのようなサイズの缶と、金魚の飼い方の本、それに大人が使うような手帳とペン。取り出した中身を、収納のために重ねられた状態のまま見ていた蘭太は、戸惑いを顔に浮かべて甚壱を振り返る。
「お前のものだ。気に入るかは分からないが役には立つだろう」
 蘭太はぶんぶんと首を横に振ってから体ごと向き直り、勢いよく頭を下げる。
「ありがとうございます、大切にします!」
「餌は惜しむなよ」
「はい!」
 消耗品は別として、禪院家の子供は自分だけの持ち物が少ない。大所帯なだけに、本家筋から離れれば離れるほど、一時的にしか使わない玩具や衣類はお下がりが多くなる。子供時代を宗家の者として過ごした甚壱は意識したことがなかったが、蘭太がちょっとした菓子一つでも喜ぶのはそういう事情もあった。
 蘭太の隣に腰を下ろした甚壱は、蘭太の手からひょいと缶を取って蓋を開け、中に金魚の餌が入っているところを見せる。
「食べ残さないように少しずつ与えるそうだ」
 そこでようやく、蘭太は水槽をちゃんと見た。ポンプが作る水流に揺れる水草に、庭石のミニチュアのような岩、底に敷き詰められた黒っぽい砂利。一匹しか見えない金魚に首を傾げると、岩陰から二匹目が顔を出した。
「三食食わせると早く大きくなるらしいが、そこは任せる」
「……三回も来ていいんですか?」
「お前が世話をしないと誰もせん」
「分かりました」
 蘭太はこくりと頷くと、甚壱に手渡された缶の中身と金魚を見比べ、食べ残さない量を考える。金魚は水槽の外に世界などないように悠々と泳いでいた。

   ◇

 広い禪院家の敷地の中、甚壱の私室がある区域と、蘭太が日々を過ごす区域が離れているため、金魚の餌やりは朝晩の二回になった。朝食の前と夕食の前に、蘭太は甚壱の部屋へと向かう。甚壱が話を通したのか、本来蘭太が通るはずのない廊下を歩いていることを、擦れ違う人の誰にも見咎められたことはない。
 呪霊の相手か、それとも別の用件か、甚壱は部屋にいないことの方が多かった。いたからといって蘭太に特別構うことはなく、金魚の餌はまだあるかとか、蘭太が学ぶ様々なことの習熟度合いとかを、言葉少なに尋ねるくらいだ。甚壱に訊かれたときに答えられるよう、蘭太は歩きながら直近の出来事と今後の予定を頭の中でなぞっていく。部屋の中に甚壱の姿がないとき、緊張が軽減されてホッとしたのは最初のうちだけで、今では物足りなさを覚えるようになっていた。
 蘭太は餌の缶を開けて、すっかり懐いて寄ってくるようになった金魚の元にぱらぱらと餌を落とす。毎日見ているせいで分かりにくかったが、大きくなったらしい金魚は瞬く間に餌を平らげた。水面に顔を出して催促する金魚に再び餌を落としてやった蘭太は、こんなものだろうと判断して缶の蓋を閉める。金魚と違い、蘭太が甚壱の部屋にいられるのは金魚が餌を食べ終わるまでだ。
「……いいなぁ」
「何がいいんだ?」
「ひゃあ!!」
 蘭太の声に驚いて、金魚は音を立てて水に潜り、水草の陰に隠れた。
 餌の缶を握り締め、蘭太は突然現れた甚壱を凝視する。縁側を進んだ先にも部屋があることは知っている。甚壱はそちらから来たのだろう。傾き始めた日の光に透けて、単衣の袖が常よりも鮮やかな色を見せている。
「術式は自分にも有効なのか?」
 動かない蘭太にじれたのか、甚壱は蘭太の目の前で手を振った。
「あっ……申し訳ありません!」
「いや。今から出られるか?」
「はい!」
 二つ返事で承諾した蘭太を見下ろして、甚壱は呆れた風な目をした。
「どこに行くのか聞かなくていいのか?」
「甚壱さんが行かれるのならどこでも構いません」
「そうか。……なら付いてこい」
「はいっ!」
 勢いよく立ち上がった蘭太は甚壱の後ろを付いていく。あと少しで始まってしまう夕食のことが少しだけ気にかかった。

 鶏と枝豆のゼリー寄せ、南瓜の茶巾しぼり、サーモンと大根の砧巻き――子供向けに誂えられた前菜のひとつひとつに、蘭太は目を輝かせた。家の外での食事はほとんどしたことがなく、連れてこられた店は出される料理以前に、カウンターテーブルも、その内側で包丁を振るう料理人の姿も、何もかもが珍しかった。
「好きなものがあったら言え」
 甚壱が言うと、口に物が入っている間はしゃべらないという躾と、甚壱の言葉に早く答えたいという欲求の間で板挟みになった蘭太は、悲しげに眉を下げた。テレパシーで伝えようとするように甚壱を見つめたまま、もぐもぐと口を休みなく動かす。
「慌てなくていい」
 しばらく蘭太の様子を眺めてから、甚壱は付け足した。
「――全部おいしいです」
「そうか」
 ようやく飲み込めた蘭太が答えると、甚壱は傾けていたグラスを置いて、手を付けていない自分の皿を蘭太の方に寄せた。
「気になるものがあれば食え」
「甚壱さんのお腹が減ります」
「……もう一皿頼むか」
 甚壱が目配せすると、親方は頷いた。指示を受けた職人がキビキビと戻っていき、間を埋めるように塗り椀が出される。甚壱が蓋を取るのを見てから蓋を開けた蘭太は、「はぎしんじょ」と説明された中身をまじまじと見て、ひとまず箸を手に取った。

「――蘭太」
「はい」
 迎えの車の後部座席で、甚壱の電話の声を聞かないようにしながら窓の外を見ていた蘭太は、名前を呼ばれて初めて通話が終わったことに気づいたように返事をした。
「甚壱さんは忙しいのに、ありがとうございました」
 何を話せばいいのかが分からず、もう何度目になるか分からない礼を言う。
 出された中で食べ慣れたものと言えば味噌汁と白飯くらいで、料理が出る度に不思議そうにし、口に含んでは目を丸くする蘭太のことを、甚壱はそれこそ珍しいものを見るような目で見ていた。時折のしが付いたままの菓子折りを渡してくる甚壱のことを、蘭太は食べ物に興味がないのかと思っていたが、どうやら蘭太に食べ物を与えるのが好きらしい。蘭太も金魚が餌を食べるところをおもしろいと思っているだけに、少し分かる気がした。
「あの店の飯は気に入ったか?」
「はい、とっても」
「何が特に好きだった?」
「どれもおいしかったです。でも……僕、えびフライ好きです」
 口の中をやけどしたことを思い出して、蘭太は照れながら言った。頭を外すのに四苦八苦した上に、海老が大きいおかげでタルタルソースを乗せた状態で上手く口に入れられず、追加分が開いた状態で出てきたときはホッとした。
「……次は最初から洋食の店に行くか」
 前を見ている甚壱に対し、ずっと甚壱を見上げていた蘭太は、少し痛くなってきた首を一度戻した。視界の端を行き過ぎるまばらになってきた街灯が、夏祭りに行ったときのように、短い非日常の終わりを感じさせる。
 次という言葉に胸が高鳴るのを感じながら、蘭太は膝の上に置いた手を握りしめた。
「甚壱さんは、どうして僕に優しいんですか?」
 当主の甥、特別一級術師、炳の筆頭――冠するものが多い分、蘭太は甚壱が蘭太を見る機会よりも多く、甚壱を見ている自信があった。それこそ甚壱が蘭太に目をかけ始める以前からだ。優しい人ではないことは知っている。むしろ、誰にでも平等に厳しいと言った方がいいだろう。分かっていながら適当な言葉が思い浮かばず、蘭太は自分に対する甚壱の態度を「優しい」と表現した。
 視線を感じて顔を上げると、甚壱の鋭い目が蘭太を見下ろしていた。笑顔がないのはいつものことだ。怒ってはいない。部屋にいないと残念に思うのに、いると緊張することを思い出して、蘭太は別々に握っていた両手を重ねて握り直す。
 質問を取り下げたい。蘭太が切にそう願うだけの間を空けてから、甚壱は口を開いた。
「……お前の術式が手元にほしい」
「僕の術式」
「ああ」
 オウム返しに言った蘭太は、甚壱と見合わせた目をぱちぱちと瞬かせた。
 首を逆側に向けて、窓ガラスに映る自分の目と、背後から自分を見ている甚壱を見る。窓の外は真っ暗で、禪院家の敷地に入ったらしかった。蘭太は視線を下げてから振り返り、もう一度甚壱を見上げた。
「僕の目、甚壱さんのお役に立ちますか?」
「お前次第だ。俺は期待している」
「……! ありがとうございますっ!」
 蘭太は深々と頭を下げた。顔が赤くなっていることが自分で分かる。甚壱の目の前でないのなら、泣き出してしまいそうなくらいに嬉しかった。

「蘭太、こっちだ」
 甚壱を見送る気でいた蘭太は、蘭太を置いて歩きかけていた甚壱に名前を呼ばれて首を傾げた。車を付けた通用門を起点にしても、蘭太の部屋は甚壱の部屋と方向が違う。
「じきに消灯だろう。今から走っても間に合わない。俺の部屋に来い」
「でも……」
「連れ回したのは俺だから話をつけてもいいが、俺も叱られたくない」
 甚壱が叱られるというのは冗談だろう。蘭太を心配するにしてはあんまりな言い分に、蘭太はくすりと笑って一歩踏み出した。

投稿日:2021年6月19日
私は全てお仕着せでも不満がない甚壱が、初めて「なくてもやっていけるけどどうしてもほしい」と思ったのが蘭太だったらいいのに、と思っています。家の財産を伏黒に渡すことは納得できないと言う時の「俺たち」という言い方や、他の御三家との関係についての意見の吸い上げを見ると、自分個人の欲を優先させることが少ない人だと思います。
更新日:2022年10月27日
蘭太の一人称を「俺」から「僕」に変更しました。公式にはまだ明らかでないのですがジャンプGIGA 2022秋の特集を読んで「僕だと可愛すぎる」という抵抗に踏ん切りがつきました。