背中の視線

「反物を見たとき、是非とも甚壱さんに差し上げたいと思ったんです」
 松に笹、梅に菊。黒地と呼ぶか金地と呼ぶか迷うほど絢爛な霞取りの中に配された女が着ていたのならば気にも留めなかっただろう取り取りの模様は、見間違いと思いたくとも思えないほどはっきりと眼前にあった。
 是非とも差し上げたい。蘭太は確かにそう言った。要不要を尋ねず仕立てまで済ませて渡すのは誰の手口か。
 甚壱はじわじわと染み出す苦い思いをいつもの無表情の下に隠した。額に注がれる眼差しは熱を感じるほどで、袖を通さずにこの場を去ることは不可能に近い。
「お使いにならなくても構いません。でも一度……たった一度でいいので、着たところを見せていただければ幸甚です」
 甚壱の無言に焦れたわけではないだろう。甚壱の読みを補強するように言った蘭太に目をやると、返ってきたのは照れたような笑顔で、細められた瞳の奥には隠す気のない期待がちらついている。
 蘭太に甘い自覚はある。
 甚壱はつきそうになる溜め息を飲み込み立ち上がった。

 手伝うと言うのを断り蘭太が持ち込んだ着物の袖を通した甚壱は、裄丈が合うことに顔をしかめた。袖巾は反物の巾以上には持たせられない。染める前なら広幅もあるだろうが、ここまで華やかな柄でとなると珍しい。
 まさか、と浮かんだ考えを甚壱はすぐさま放棄した。全くの私事で、蘭太の金だ。こういう時まで金勘定をする必要はない。
 甚壱は衿を合わせると、蘭太に預けていた腰紐を受け取った。

「着たぞ」
 男の部屋だ。姿見などない。それに見たくもなかった。
「よくお似合いです。思ったとおりです」
 甚壱が着ていた長着を携えた蘭太はうっとりとして言った。
 感想を求めたのではなかったが、わざわざそれを告げる必要はない。甚壱は平時から有事まで対応可能なむすっとした顔を崩さず、結んだばかりの帯に早々と手をかけた。
 悲しげな息遣いに、ひしひしと感じられるすがるような気配。「もうですか」という空耳すら聞いた甚壱は思わず蘭太を見る。
 蘭太の瞳が哀願に揺れる。意図してやれないのが蘭太の弱みであり、強みでもあった。
「もう少しだけ、着てくださいませんか?」
「……」
 甚壱は自分を安全な男だと思っている。凡庸と言い換えてもいい。
 禪院家の存続を脅かすような野心を抱かず、特別一級術師を称するだけの才を備えているという以外に突出したものがない。金の絡むことはいくらか得意だったが、生業にするほどのものではない。現場の方が好きだった。
 自分には、人を狂わせる才がない。
 それが禪院家当主として立つ父の背を、その背に頭を垂れる人々を見て知った身の丈だった。
「蘭太」
 甚壱は解きかけた帯を締め直して蘭太に向き直った。
 空気が変わったことに気づいたか、蘭太はうろたえたように目を泳がせた。意を決したように甚壱の目を見つめ直すが、表情は固い。それでも甚壱を見ていると湧くものがあるらしく、おもしろいように瞳が熱を帯びてくる。
 父は人を燃え立たせるのが巧い人間だった。そのくせ本人はいつまでも冷徹さを保ったままで、付けられた火を父に移したいと願いながら、叶わず燃え尽きた男を何人も見てきた。
 甚壱は蘭太から目をそらして、縁側を向いて腰を下ろした。
 胸にあるのは感傷ではない。父に呪力があることは、父にも感情があるということを示す唯一だった。己はそうではない。
「気が済んだら脱がせろ」

投稿日:2023年9月18日
甚壱に派手な着物を着せたい期にネタ出しだけしたものを完成させました。まともな着物仕立てる話は蕨さんの「紬」を超えられないと思う。可愛くて素敵なお話なのでまだの方はぜひぜひ。(交流がない方の小説のリンクを張るのはどうなのか)(でも可愛いから)
伝えられたか分からないんですけど甚壱は甚壱で蘭太に着物やってます。