楽しい逃避行

 草鞋の紐を締め終えて立ち上がった蘭太は、見送りのために控えている人間に挨拶するために振り返った。
「それでは――」
 視界の右端で襖が開く。誰か用事かと目をやって、ぬっと顔を出した甚壱を見て目を丸くする。蘭太の様子から異変に気づいた見送りも、ぎょっとした顔で甚壱を見上げた。
「蘭太、仕事を代わってもらえないか?」
 懐手で隣に立った甚壱をおのぼりさんのように見上げていた見送りは、甚壱が口を開いた瞬間、はっと我に返って平伏した。
「いいですよ。いつのですか?」
「今日だ」
「……今から出るんですけど」
「分かっている。それを俺に代わってほしい」
 急どころの話ではない。蘭太は整えたばかりの足元を見下ろしてから、再び甚壱を見上げた。玄関の段差分、いつもより余計に首を仰向けなければならない。
 冗談を言っている気配はない。駄目押しとばかりに、甚壱は提げていた履物を蘭太に見せる。準備は万端ということだ。術式やロケーションの相性があるとはいえ、蘭太に祓える呪霊を甚壱が祓えないはずがない。
 甚壱の足元に蹲った見送りは、恐縮しきりで石にでもなったような有様だ。説明も、周囲への気配りも足りない。動作や口調は普段通りだったが、どこか気忙しさを感じる。甚壱らしくないやり方だった。
「甚壱さん、もしかしてお客様がお越しですか?」
「……」
「分かりました」
「まだ何も言っていない」
「お答えいただかなくて結構です。甚壱さんに嘘をつかせたくありません」
 蘭太はゆっくりと、決意を込めて頷いた。
「撤回します。代われません。お戻りください」
 蘭太が手のひらを奥に向けて指し示すと、甚壱は露骨に嫌な顔をした。動きたくないという意思表示か、軽く開かれた足先に力が籠もる。
「俺の客じゃない。いなくても構わん」
「それでしたらわざわざお出にならなくても」
「扇はつまらんからと毎度俺のところに来るんだ。捕まったが最後、一晩中相手をする羽目になる」
 奥を睨みながら「つまらなさなら俺も負けていない」と身も蓋もない不満をこぼした甚壱が、真に迫った顔で蘭太を見る。
「お前にも関係のある話だぞ。あいつは仲人をやるのが趣味だ」
「結構なご趣味ですね」
「そうだろう」
「一晩中釣書を見ることになるんですか?」
「そうだ」
 なるほど、と蘭太は頷いた。蘭太と甚壱は交際中だ。術式継承のための二号の是非はさておいて、少なくとも蘭太から見た甚壱は、恋人がいる身で見合いをする男ではなかった。無論、甚壱が気にしているのは見ず知らずの女ではなく蘭太のことだ。
「肴がお口に合わないのはお気の毒ですが、甚壱さんのご選択なら、俺が口を出せることではありません」
 無関係だとはしごを外すと、甚壱は不服そうな顔をした。
「……俺の選択に文句がないなら、出て行っても構わんだろう」
 余程苦手な相手なのだろう。理路をかなぐり捨てた言い分に蘭太は失笑した。そんなに嫌なら蘭太と顔を合わせることなく、適当な誰かに言い含めて出掛けてしまえばいいのだ。出入り口はいくらでもある。真っ当な出入りをするにしても、本当に祓除に赴く必要は微塵もない。出立を焦るあまり気が回らなかったのか、それとも。
 蘭太は表情が緩まないよう腹に力を入れた。
 甚壱にその意思がなかろうと、甚壱が他者と縁を結ぶことが禪院家のためになるなら、いつでも身を引けるし、成立のための後押しだって厭わない。それは付き合う時点で決めていたことだ。
 しかし心づもりがあるのとは別に、甚壱が自身の結婚を、蘭太に関わりがある出来事と考えていると分かったのは、降って湧いた僥倖だった。
「念のためもう一度お伺いしますが、甚壱さんのお客様ではないのですね?」
「ああ、俺の客じゃない。来るのも今日知った」
 術師にとって言葉がどういう意味を持っているか、互いに理解しているために話はすぐに済む。
「交代を承ります。詳細は道すがらお聞きになってください。編成と配置は……釈迦に説法ですね、ご随意にどうぞ」
 急な交代だが、甚壱なら損傷の少ないように取り計らうだろう。躯倶留隊からの信も篤い。悔しいことに、蘭太がやるより上手くいく可能性すらあった。
「助かった」
「いいえ。ご武運をお祈り申し上げます」
「……お前も来ないか? 時間は空いただろう」
 蘭太が返事をする前に、甚壱は袂から取り出した封筒を、顔を伏せたまま待機している見送りの鼻先に置く。
「蘭太が急病らしい。部屋で寝ているから、何か口当たりのいいものを買って来てやってくれ。残りは駄賃だ」
 見送りが、心得たと頭を床に擦り付ける。そこまでする必要はなかったが、ずっと頭を下げている状態から諾意を示そうとすると、そうせざるを得ない。
「……帰る時に気を遣うなぁ。こっそり入るの下手なんですよ」
「その頃には皆忘れてる。問題ない」
 甚壱に続いて敷居を跨いだ蘭太は振り返り、下げ通しのつむじを見る。上から見ても厚みが分かる封筒だった。たかだか一日の不在を誤魔化すだけにしては多すぎる。
 前を向き直した蘭太は、先を歩いている甚壱の背中を見ながら、甚壱の予定を頭の中で繰った。偶然にも、蘭太と同じく三日の暇がある。
「祓除が終わればその足で旅行だ。お前が俺の部屋に着替えを置いていて助かった」

投稿日:2022年3月13日