何もない日
「年寄りの相手ばかりで疲れているだろう。いいのか、俺のところに来て」
「直哉さんにも同じことを言われました。似たところもあるんですね」
蘭太の発言を、返答に困る話を振った意趣返しと取るのは軽率だろう。甚壱は乾杯の音頭を待つ蘭太の澄んだ瞳を見返してから、軽く杯を掲げた。好きに飲んでいいし、なんなら手酌だって構わない。だが、蘭太が自然とそうできるようになるのは、もう少し杯数を重ねてからだ。
「年上の方のお話は勉強になることも多いですし、ちょっとした思い出話であっても、知らないことを知れるのは面白いです」
杯を口元に運びながら蘭太は言う。随分と飲まされたに違いない。伏し目がちになった目元の熱っぽさから、甚壱は箸を持ったまま眠りに落ちた子供時代を思い出した。
酒を飲み、息を抜くために開いた唇を閉じたとき、ほんの少しだけ口角が上がる。蘭太の感情表現はいつだって素直で裏表がない。
視線に答えるように甚壱を見た蘭太は、にっと笑った。
「いい子の回答だって思いました?」
「……」
それも直哉に言われたのだろうか。それとも周囲に言われ慣れたことを茶目っ気として甚壱に投げかけたのだろうか。どちらにせよ先手を打たれた形になった甚壱は、持ち前の仏頂面を保ったまま、ぐいと酒をあおった。
蘭太が飲みたいと言うから酒を用意したが、飲ませるのは適当なところでやめにしなければならない。甚壱の考えを察したか、蘭太は自分の杯を干そうとはせず、空になった甚壱の杯に酒を注いだだけで銚子を置いた。
「いい子じゃありませんでしたよ。早く甚壱さんにお会いしたいって、そればかり考えてました」
蘭太が急な出席を余儀なくされた宴会に、甚壱は招かれていない。今こうして二人で過ごす時間は、蘭太の申し出がなければ、再来週までお預けだった。今日の予定がご破算になりかけたように、先の予定はいつだって不確定だ。再来週なら会えるだろうというのもまた、ただの見込みで果たされる保証はない。
「……俺はお前が誰の相手をしていたかを知らん。名前や顔を知ったが最後、目にする度に苛立つだろうからな」
「じゃあ絶対に言わないようにしないと。家の中が松の廊下になります」
「そこまではせん」
「甚壱さん今、すごく怖い顔してましたよ」
苦笑した蘭太は自分で飲むための水を水差しから汲んで、必要かと甚壱に視線だけで問いかける。小首を傾げた上目遣いの視線に、甚壱は首を振って返した。
「……お前の成長は見込み通りだが、自分がこうなるのは予定外だった」
蘭太の可愛さは幼さに由来したもので、いつかは失われるものだと思っていた。年の差が縮まることはないとはいえ、酒を酌み交わせる年齢になってもまだ可愛いと思えるなど、誰が想像できよう。
きょろりと向けられた丸い目が、仕掛けのある人形のようにぱちぱちと瞬く。蘭太の目を見る度、人間の眼は球体なのだと実感できる。
「甚壱さん、お変わりになりましたよね」
「そうか?」
「はい。昔はもっと寡黙で……正直怖かったです」
自分が変わったという感覚はない。昔はどうだったかと顎に手をやるが、思い出せるものではなかった。蘭太がコップを平膳に置く音が聞こえる。
「それか、俺が分かるようになったのかもしれません。長いことお側に置いていただいていますから」
「……なら、俺が今何を考えているか分かるか?」
「酔うには早いですよ」
笑いながら、蘭太は甚壱の顔を検めるように注視する。自分で振ったことながら、流石に居心地が悪い。視線を感じる方に目をやると、当然ながら蘭太と目が合う。井戸の底を覗き込んだような、長く見るべきものではないものを見ている感覚。しかし、こんなに柔らかな眼差しを向けてくる人間を、甚壱は蘭太の他に知らなかった。
身を乗り出すようにして甚壱の目を見つめていた蘭太が、物が喉につかえたような顔で体を戻した。わざとらしいほど苦い顔で甚壱を睨む。
「甚壱さん……」
「分かるんだろう?」
「分かりますけど……」
蘭太の声には非難が籠もっている。言わずには話題が変わらないことを悟って、苦い顔のまま口を開く。
「『蘭太はかわいいなぁ』」
「正解だ」
「勘弁してくださいよ……」
蘭太は自分の膝に手を置き、項垂れるように首をひねる。正面から受け止めて憤慨するところに若さがある。深呼吸か溜め息か。次は水ではなく酒を飲むだろうという予想通り、拗ねた顔をした蘭太は手酌で注いだ。庭でもなく、掛け物でもなく、何もない壁を見ているのが分かりやすい「そっぽを向く」で、そこがまた可愛かった。
「蘭太は昔から分かりやすかった」
「子供でしたから。今はちゃんとやれてます」
「そんなに分かりやすいのにか?」
「隠したら甚壱さん不安になりますよ? 蘭太は本当に俺のことを好きなのか? ――って」
「言うようになったな」
似ていない声真似をポーズ付きで披露されて、あまりのくだらなさに頬が緩む。演じる蘭太も似ていない自覚があったらしく、すぐに眉を開いて照れ笑いをした。
- 投稿日:2022年3月12日