若い燕

 甚壱は色恋沙汰にとことん疎い。
 興味もないから信朗から持ち込まれる度に適当に聞き流していたが、蘭太が女に入れ込んでいると聞いた時は、蘭太も噂話の俎上そじょうに載せられる年になったか、と流石に感慨深く思った。
 だが、それだけだ。
 とっておきのネタを持ち込んだつもりらしい信朗はつまらなさそうに口を尖らせた。

「なんだよ、蘭太の相手がどんなか気にならねぇの?」
「放っておいてやれ。どんな相手だろうと蘭太は身を持ち崩すような真似はしないだろう」
「お厚い信頼ですこと。でもあれ相当な年上だぜ」
「なぜ分かる」

 甚壱が聞くと、信朗は甚壱が釣れて嬉しいらしくいきいきと眉を上げた。

「蘭太がしてる時計、値段もだけどセンスが若い女じゃねぇよ」
「……自分で買ったかもしれないだろう」
「あいつの持ちもん年の割に渋いからなぁ。その可能性込みでおっさん連中が褒めたら『いただいたんです』だってよ。あの顔で女じゃなけりゃ何なんだよ。甚壱にも見せてやりたかったぜ」

 上司をあいつ呼ばわりはよせ。
 蘭太の時計は俺がやったものだ。

 両方の意見が同時に脳内で持ち上がった甚壱は、そのどちらも選ばず沈黙を保った。信朗の予想だけでなく、他も絡んでいるなら下手なことは言えなかった。
 蘭太に買ってやったものは時計だけではなかったが、何をやるにしても蘭太に似合い、長く使える質の良いものを選んでいる。もちろん自己満足になりすぎないよう蘭太自身に選ばせるなど気を遣ったつもりだったが、まさか己の所業のせいで蘭太の持ち物が年齢にそぐわないと言われているとは。
 何かやるたび手放しに喜ぶ姿が可愛くて、つい与えてしまう。年齢は違えど同じ炳、続柄は遠く姓が同じなだけの他人で、蘭太だけを可愛がっている後ろめたさはある。根も葉もない話ならいつかは消えるが、全くの嘘というわけではないだけに根が深い。

「おいおい甚壱、顔怖ぇぞ」
「元々だ」
「それはそうだけどよ、ただの噂じゃねぇか。そんな顔しなくてもいいだろ。お前が言う通り、蘭太は面倒事なんか起こさねぇよ。人妻に手ぇ出して刃傷沙汰とか」

 信朗は一昔前に禪院家で起きた騒動を引き合いに出して話し始めたが、甚壱の気は晴れなかった。

   ◇

「蘭太は俺が好きなのか?」
「当然ですよ。これで嫌いなら相当な恩知らずです」

 甚壱が問いかけると、座卓いっぱいにパンを広げた蘭太は間髪入れずに答えた。
 朝駆けの任務の帰りはパンを買ってくるのが蘭太の習慣だ。毎回躯倶留隊にも差し入れしているらしく、代金を渡そうとした甚壱は「いただいたら俺からじゃなくなりますから」と断られてしまい、ついぞ金を出せていない。

「念のため言いますけど、物に釣られたわけじゃありませんからね。甚壱さんのお人柄に惚れました。もうぞっこんです」

 ふざけて古臭い言い方をした蘭太は甚壱の反応を待つことなくさっと座卓を離れ、トースターを出すために地袋を開けた。延長コードを繋いだまましまったトースターは例のごとく甚壱が買い与えた物で、保管場所を提供している甚壱が自分で使うことはなかったが、蘭太がパンの他にスルメやエイヒレを持ち込んでくるおかげで出番は多い。
 パンの世話を蘭太に任せ、甚壱は所狭しと並べられたパンの群れに目を走らせた。出された食事は基本的に残さない甚壱だが、蘭太がさくら味とかチョコミント味とかのゲテモノを渡してくるのには少々参っている。蘭太が年寄りの受け売りで言う「初物七十五日」はパンには適用されないと思う。今回は枝豆チーズパンがそれに当たるらしく、甚壱は密かにほっとした。

「急に『俺が好きか』なんて、どうかしたんですか?」
「どうもしない。それより行き先は決まったのか?」
「この時期の連休はめったにないからまだ迷ってます。二つまで絞れました」

 数なのかピースなのか分からないサインを出しながら、蘭太は甚壱の向かいに腰を下ろした。ここで取り出すのがガイドブックでなくスマートフォンなところにジェネレーションギャップを感じる。
 液晶画面に表示されているのは見るからに洒落たホームページで、甚壱は絵面の端に現れた文字を読むまで、表示されているのが知った行楽地だと気づかなかった。信朗は蘭太の趣味が渋すぎると言っていたが、自分や信朗が知らないだけで、観光地もメーカーも新規顧客開拓のために若者向けの広告を打っているのかもしれなかった。
 それにしても、暖かくなってきた時期に温泉とは。
 まさか年寄りの自分に合わせているのかと、甚壱がパンの焼け具合を見ている蘭太を盗み見ると、敏感に視線を察知した蘭太は目配せするように甚壱を見て口角を上げた。

「甚壱さんは俺のこと好きですか?」

 トースターから焼き上がりを知らせる電子音がしたが、蘭太は甚壱の方を向いたままだ。座卓の上で組まれた蘭太の腕の前、パンより先に置かれた紙コップ入りのコーヒーは蓋も開けていない。ぬるくなってからでは砂糖が溶けにくいだろうに。腹も減っているだろうに。

 ――蘭太が入れ込んでる。

 信朗はそう言っていた。女が蘭太に入れ揚げているのではなく、蘭太の方が惚れているのだと。蘭太がしている腕時計が、蘭太が買ったものでないことを知った上で。
 どこか切実な感じのする目で、蘭太は甚壱を見つめている。
 甚壱は好いた惚れたの話に疎かったが、相手の言葉に真があるか分からないほど鈍くはなかった。

「俺も好きだ」

   ◇

「――で、ここは俺が入る。こんなもんだろ。……甚壱? なぁ、聞いてるか?」
「聞いている」
「それならもっと聞いてるらしい顔しろよ。分かりにくいんだよ」
「そんなことはない」

 甚壱は信朗から渡された躯倶留隊の配置を記した紙を、軽く目を通してから畳んで懐にしまった。結界代わりに躯倶留隊を使うのだ。誰がどのあたりにいたかは、任務後の安否確認に必要だった。

「あるだろ、何基準の否定だよ」

 ぶつくさ言う信朗の声を上書きするように、蘭太の「甚壱さんって結構分かりやすいですよね」という声が蘇る。通常の倍のレモンが入っているという売り文句に偽りなく、輪切りレモンが層になっているレモンサワーのグラスに、さらにレモンを絞りながら笑う声だ。蘭太の食の趣味は理解し難いところがあり、甚壱がそう思っていることは以前から筒抜けらしかった。
 信朗にわざわざ教えてやる必要はあるまい。

「俺は分かりやすい」

 甚壱は、蘭太基準だとは言わなかった。

投稿日:2023年6月5日
京都人ってパン好きらしいけど禪院家もそうなのかしら。