養子縁組
父が呼んでいると、母からテキストメッセージが届いたのは昼前のことだった。
昼食を済ませてから帰るかと思った矢先の報せに、蘭太はひょいと首を傾げる。
父が自分の携帯電話を使わずに母を頼るのはいつものことにしても、用件くらい知らせてくれてもいいだろうに。
蘭太は計画というほどのことはないにしろ、予定に水を差された不満に尖らせた口を引っ込めて、タクシーを拾うべく通りを見渡した。
「甚壱さん」
珍しい訪客だった。
三和土の下駄の大きさに甚壱の顔を思い浮かべはしたが、本当に甚壱が来ているとは思わなかった。それならば母の緊張も頷ける。
蘭太の実家を甚壱が訪ねるのは、久しくなかったことだ。術式が判明して間もない頃、甚壱に連れられる形で携わった任務で、蘭太が怪我を負ったとき以来か。あれから優に十年は経つ。
甚壱は蘭太が連絡を受けた時から待っていたわけではないだろうし、甚壱の性格からしても、いきなり訪ねたのではなく事前に時刻を指定して来たのだろうが、今日の今日というのが急な来訪であることには違いない。
敷居を越えてすぐのところに座した蘭太は、部屋の中で向かい合う父の顔と、甚壱の顔を見比べる。座るのはここで良いだろうか。
「蘭太」
「はい」
父に呼ばれて、蘭太はすっと立ち上がった。
父の隣に収まり、向かいに座る甚壱に目礼する。
ベタな結婚の申し込み――息子さんを僕にください――を思い浮かべて、否定する。ちょうど当てはまるシチュエーションだったが、いくら付き合っていてもそれはあるまい。
ならばどういう状況だと考える間に、甚壱は組もうとした腕を自ら押し留めた、というような動きをした。蘭太に向ける目にはかすかな戸惑いが見える。
甚壱はたっぷり間を取ってから口を開いた。
「俺の養子にならないか」
「……どうされたんですか、急に」
前言撤回。息子さんを僕にくださいだった。
「知っての通り俺には子供がいない。親も、兄弟もな。税金対策の、書類の上の話だ。蘭太と蘭太の両親の関係はそのまま、戸籍上も親であることは変わらない。俺の側から、蘭太に子としての振る舞いを求めることもない」
言葉を切った甚壱の眉間に皺が寄る。
「……関係があるのは、俺が死んだ時だけだ。お前にもしものことがあった場合には、俺は関わらない」
蘭太は奥歯を噛み締めた。甚壱と二人きりならば文句の一つも言えたが、この場には父がいる。蘭太は甚壱との交際を家の誰にも言っていない。何も知らない父からすれば、蘭太が甚壱に文句を言うこと自体ありえないだろうが、恋人としての付き合いは対等なものなのだ。甚壱のもしもの権利をくれるならば、甚壱も蘭太のもしもに関わるべきだ。年の差を笠に着た甚壱の行いは、抗議して然るべきだった。
不満を抑え込んで父の様子を窺うと、重々しい首肯を返された。好きにしろということだ。
甚壱が父を相手にした説明は、恐らく今の話と同じ内容だろう。訪問の予告をした時点で明かしてあったかもしれない。疑問に思わないのだろうか。甚壱が、他の血縁者を差し置いて自分の息子を養子にする理由を。
どうして自分を選んだかを、今ここで聞くのはかえって白々しくなるか。
蘭太は考えるべき諸々を、きっと言葉を尽くしただろうという甚壱への信頼にすり替えて、膝の前に手を突いた。
「謹んでお受けいたします」
「甚壱さん!」
父母の相手もそこそこに、飛び出すように家を出てきた蘭太は、ようやく追いついた甚壱の背中に声を掛けた。
足を止めた甚壱が、振り返る。
「出掛けていると聞いたが、早かったな」
「早かったなじゃありませんよ!」
大きく息を吸って、吐く。呼吸を整えた蘭太は、何食わぬ顔をしている甚壱を睨み上げる。
「何ですか突然」
「前に言っただろう。全部やると」
「前って」
「先週の火曜日だ」
――まだしたいです、もっとください。
甘ったれた自分の声が耳の奥に蘇り、蘭太は思い切り顔をしかめた。
蘭太が思い出したことを察知したらしい甚壱は、それだとばかりに頷いた。
確かに、甚壱はくれると言った。性に絡めた単語が行き交う中で、場にそぐわない財産の話が出たことも覚えている。吹き込まれた声を再生する自分の耳を、蘭太は乱暴に引っ張った。
「あれ冗談じゃなかったんですか!?」
「お前は俺の冗談を真に受けるくせに、本気のことは冗談だと思うな。次から逆に捉えたらどうだ」
混ぜ返された蘭太は悪態をつきたい気分になったが、甚壱に悪意がないのは分かりきっているために、飲み込んだ。何の企てもない時の甚壱の発言は、毒があっても裏はない。
蘭太は苛立ちを吐息と共に逃して、人があまり通らないせいで、そこそこにしか手入れされていない小道の脇を見た。伸びた青草の端は枯れ、夏の終わりを感じさせる。
「遺産なんかいりません。長生きしてください。生きている甚壱さんが好きです」
「蘭太こそ順番は守れ。俺より先に死ぬな」
「術師に言います?」
「俺だってそうだ。……死なないように強くなれ」
「精進します」
蘭太は肩越しに後ろを見て、誰もいないことを確かめてから、甚壱の手を取った。
出かけたところを戻されたのだ。この後の用は何もない。蘭太は甚壱の家に向かって歩き出した。
「大事な話は正気の時にしてください」
握り返される手のぬくもりに、心が浮き立つ。
正気の時とは言ったものの、恋をしている真っ只中、境は曖昧だった。
- 投稿日:2022年9月9日
- 更新日:2023年3月1日
- サイト改装に伴い改題、微修正(旧題:全部やりたい)