暗黙の了解

 亡母の月命日の墓参りに、父から誘いの声が掛かったことはない。弟を連れて行くのはいつも杏寿郎の役目だった。
 左右に備わる花立の、片方だけに花を活ける。先に花がある時も、ない時もあったが、翌月に訪れた時には必ず、真新しい一束が活けられているか、枯れた花が二束あるかのどちらかになっている。
 鬼の出現には盆も正月もない。最終選別を終えてから、一層言葉を交わす機会のなくなった杏寿郎が持てる、数少ない父との交流だった。

 格子戸には錠が落とされていた。通ってきた潜り戸は施錠されていなかったが、ともかく家に人のいないことを知った杏寿郎の心中に去来したのは、置いて行かれたという子供じみた考えだった。
 父上はもう家におられるのだから、墓参りに千寿郎を連れて出られるのは自然のことではないか。いつも千寿郎を一人残して任務に行くくせに、置いて行かれたなどどの口が言うか。
 振り子のように、思考が行きつ戻りつ交錯する。鍵を求めて胸のポケットに手をやるが、錠を開けたとて無人の家中には何の用もない。金属が指先を冷やす一方で、任務明けのぬるい眠気が頭を掴みくる。
「兄上! おかえりなさいませ!」
 踵を返した杏寿郎の横顔に、千寿郎の声が掛かる。杏寿郎は驚きを顔から掻き消して、すぐさま笑顔を作った。
「千寿郎! もう出たのではなかったのか!」
 千寿郎が現れたのは裏門がある方からだ。駆け寄ってくる弟を迎えながら、どこぞへ行っていたのかと見えぬ向こうを透かし見る。幼子のように抱きついて、いいえと首を振る千寿郎が、甘えたふりで薬の臭いを確かめていることを知っている。怪我があろうとなかろうと、お互い口にしたことはない。
「お声は聞こえていたのですが、食事の支度から手を離せず、出迎えができず申し訳ないです。この時間にお戻りなら朝食もまだかと思いましたが……もうお済ませになりましたか?」
 改めて見れば、確かに千寿郎は前掛けをしている。ふわりと米の炊ける甘さが香った気がして、杏寿郎は弟を強く抱き寄せた。簡単なものしかありませんよ、と困った声が言った。

 鬼狩りは定休がない代わり、何でもない日が不意に空く。つい先日千寿郎の優しさに触れたばかりだというのに、弟の不在を幸いとした自分を、杏寿郎は蔑んだ。
 眼下にあるのは汗みずくになった父親の体。いつも我を押し通して思いを遂げることがまずかったのか、槇寿郎は最近、抵抗らしい抵抗を見せなくなっていた。受け容れられているのではない。無関心なのだ。槇寿郎が望んだ効果なのかはさておき、その対応は杏寿郎の心に暗い影を落としている。
「父上、おつらくはありませんか」
 何の応えもないのを承知で、杏寿郎は声を掛ける。雪見障子のガラス越しに注ぐ日差しが、夜には見えない古傷の引き攣れを浮かび上がらせる。かつては夏以外に素足を見ることすら稀だった。今は何もかもが晒されている。
 一度や二度、微々たる熱を放出した程度では収まらない。先からずっと入れたままの猛りでもって揺さぶれば、槇寿郎の手が、敷布の波の形を変える。この気持ちを言葉にするなら、里心というのが一番しっくりとくる。事実、父親の腹の熱は、求めた温もりにとても似ていた。
「千寿郎が帰るまでまだありますね」
「……っ」
 聞こえてはいるのだ。生まれた緊張がほぐれるように、杏寿郎は槇寿郎の背を撫でる。拒まれたいわけではないが、これでは少し寂しい。
 一か八かだ。思い立った杏寿郎は身を引いて、襦袢を取り上げ羽織った。血の巡りに意識を向けて息を吸う。叶わなければそのままにするつもりだったが、思ったよりも抑制が利いた。
「休みましょう。水を汲んでまいります」
 転がる徳利を一つ拾い、足早に部屋を出る。そろそろ水を飲ませなければまずいというのは本心だ。
 待っていてくれとは言わなかった。言わなかったから、姿が消えていても仕方がない。そう考えながら水瓶の蓋を開けた杏寿郎は、本人の部屋なのだから、残っていたとしても待っていたことにはならないのではないか、という単純な答えに行き着いた。
 このまま戻らなければ、父上は安堵なさるのだろうか。
 柄杓で汲んだ水を一滴の漏れもなく徳利に収めてから、杏寿郎は土間に降りた口とは別側の、裏門に相対した引き戸に目を向けた。閉じた戸の隙間から、昼間らしい光が漏れている。
 誘われるように足を向けかけて、勝手口から出入りするものではないと叱った母の声を思い出す。冷静になってみれば、外へ出られる格好でもない。
「戻ろう、父上がお待ちだ!」
 杏寿郎は力強く頷いた。

投稿日:2021年3月13日