事後承諾
鎹鴉の羽音を聞いて、瞳の色が一気に冴える。
名残を惜しむ気配など微塵もさせず、すっと身を引いた杏寿郎は、畳に降りて手をついた。
「行って参ります」
指令に「直ちに」と付く状況がどういうものか、槇寿郎は身を以て知っている。日頃の己の態度を顧みれば、行くだけ無駄だとでも言うのが自然だが、人の命を無下に扱うことなどできず、無言のまま乱された前を打ち合わせた。同じ男としての気がかりで、息子の股ぐらに目をやると、すっかり服を整えた杏寿郎は、目元に羞じらいを含ませた。
「じきに収まります」
では、と頭を下げる。そこからの退出は当然ながら早かった。
残された槇寿郎は一人溜め息をついた。似た状況に覚えがあった。
せめてと言う瑠火の申し出を、きりがないからと辞退する。口の不調法を自覚して、そばにいるだけで何度でもその気になってしまうと重ねて明かす。婚家のしきたりと心得ていても、昼日中のまぐわいは新妻には負担であっただろう。あまつさえ中途で放り出されるのだ。淡く色づいた白肌から目をそらして部屋を去る。帰りの約束も、詫びる言葉も持たなかった。
これはなかなかつらいなと、槇寿郎は乱れた布団にごろりと横になる。息子と共寝せずに済んだのは幸いだが、それはそれとして起こされた火は始末に困る。妻はどうしていたのだろうかと考えて、湧いた罪悪感から枕頭の酒に手を伸ばす。亡くしてから過ぎた月日の長さが、己が妻を自涜の肴にできない領域にまで押し上げていた。
肌で温められた石鹸の匂い。ためらいがちに頬に触れるぬくもり。はて、瑠火の手はこんなにも熱かったか。目覚めているかどうかも定かでないまま、槇寿郎は舌に触れた甘みを飲み込んだ。
喉を滑り落ちる冷たさによって意識の輪郭が確かなものになり、重い瞼を持ち上げると、見慣れた影がそこにあった。いつの間にやら眠っていたらしい。二度三度と瞬いて、障子を透かす薄明に時間の経過を知る。
「お目覚めになりましたか」
「……覚めるに決まっているだろうが」
身を半ばまで起こし、渡された水筒の水を渇いた喉に流し込む。感覚が明らかになってみると、唇に残る感触は水筒の吸口のそれとは違っていた。咎めるのも面倒で、槇寿郎は飲み終えた水筒を杏寿郎の胸に押し戻すに留めた。
酒を変えた覚えもないのに頭の芯がぼうっとする。これも本意でない時に起こされたからだろうと、槇寿郎は二度寝を決意し再び体を横たえる。背中に張り付く気遣わしげな視線に、早く去ねと一瞥くれると、杏寿郎は却って居住まいを正した。
「父上」
「もういい。俺は寝る」
黙っておけばいいものを、あくまでも詫びを入れる気か。そばがらの鳴る音を耳下に聞きながら布団を引き上げると、やけにきちんと合わさった衿元が首に擦れた。
寝汗をまるで掻いていないし、着たきりの寝巻にしては糊がきいている。寝しなに飲んだ酒はどこへ行ったか何の予感もない。ただの違和感だったものが、じりと肌を炙るような熱に変わる。覚えのない感触が尻に残っているような気すらして、槇寿郎は枕に頭を押し付けたまま、白さを増す障子紙を凝視する。
背後で障子が開き、閉まる。その間にあったのは何か――例えば水の入った盥――を運ぶ動作だ。肩越しに振り返り見るが、廊下の方が暗いために影も映らない。眠りを妨げないようにと気遣った、抜き足の歩みは去った方向すら分からない。
眠気はすっかり失せていた。
- 投稿日:2021年3月20日