犬に噛まれる

「一度きりだと言ったはずだ」
「はて、そうでしたでしょうか」
　とぼけたのではなく心から、そんな約束をしただろうかと杏寿郎は首を傾げた。体を求める際に、鬼殺隊炎柱として立ってくれとは望まぬからと縋った覚えはある。与えてくれたのなら金輪際、剣を握ってほしいとは口に出さないと言ったのが、どこかですり替わったに違いない。
　実の父親を抱きたいというのは、忘八も裸足の恥知らずな行いには違いなかったが、孝悌を忘れたつもりは毛頭ない。むしろ崇敬の念を抱いているからこそだと杏寿郎は思っている。さりとて槇寿郎はそう捉えてはいないのだから、約束を違えていないと弁明したとて、今さら何になるというのか。
「忘れました」
　順を追って正す必要はあるまいと、杏寿郎は思考を打ち切りからりと笑った。
「父上が昔、飼えない犬に餌をやってはいけないとおっしゃったのは覚えておりますよ」
　土埃に汚れて骨ばかりが目立つ野良犬に構おうとしたのを咎められたのだったか。その後に見かけなかったことを思うと、きっといい結末ではなかっただろう。槇寿郎の腕を押さえた杏寿郎は、怪訝な顔をする槇寿郎を見下ろす。
「なるほど、味を占めるという意味がよく分かりました」
　形だけでない抵抗を封じてしまうことが、どれだけ槇寿郎の矜持を傷つけることになるか知った上で、杏寿郎は大立ち回りまがいの取っ組み合いに付き合った。息子に負かされたことが悔しいと見える、睨む目には恐怖の色はない。成長と喜んでもらえないことは分かっていたから、まだそういう負けん気があることに、密かな満足を得る。
「俺が父上に、稽古をつけてほしいと頼んだ回数は覚えておられますか」
「知るか」
「俺も覚えておりません。ですが、結構な頻度であったかと」
　もしかして、今日こそは、と希望がなかなか捨てきれなかった。押してだめならの精神で引いてみたときもあったが、結果は変わらず。
「抵抗してくださって構いません。俺は、父上と時間を過ごせるだけで嬉しいのですから」
　押さえつける腕を外そうとする腕に満身の力が籠もっていることを知った上で、杏寿郎は言った。