迷い

 目覚めて真っ先に目に入った天井には、夕暮れ時の赤みを帯びた光が差し込んでいた。日が高いうちに眠れるというのは鬼狩りに必須の技能だったが、このところあまり眠れていなかったとはいえ、よくもまあこうも燦々と日の当たる場所で眠れたものだ、と杏寿郎は他人事のように考える。人の気配を感じて首を巡らせれば、縁側に向かって酒をあおる、見慣れた父の姿があった。
「なぜあんな馬鹿なことをした?」
 杏寿郎が声をかけるより先に、振り向かないまま槇寿郎が問う。
 馬鹿なこととは、父親を抱きたいと願ったことか、それとも言われるままに酒を飲み干そうとしたことか。
 杏寿郎は体を起こしながら、酒のせいか、眠気がない割に動きの鈍い頭で考える。
「父上が俺に期待してくださるのは久方ぶりのことでしたので」
 飲み干せたなら付き合ってやろう、と擦れっ枯らした笑みと共に押し付けられた徳利はずしりと重く、槇寿郎が酒を買いに行く頻度を鑑みずとも、一息に飲む量でないことは明らかだった。
 この分だと失敗したのだろう。胃の腑を焼くような強い酒を飲み下し続けたせいか、喉に違和感がある。吐き戻しはしなかったかと見下ろした体は、着替えさせられたのか、隊服ではなく寝巻を着ていた。
「ご期待に添えず――」
「期待などするものか」
 立ち上がった槇寿郎の足元には、黒々とした影が伸びている。肩越しに向けられた視線を追って枕頭を見ると、徳利と水差しが並んでいた。
「中身はどちらも水だ。飲んでおけ」
「はい。……あの、父上」
「飲めたらという話だった。この話は終いだ。……もっとも、あれだけ飲んだ後では役に立たなかっただろうがな」
 今よりもまだ若い日に妻を亡くし、後添いを迎えることもなかった男の欲の在り処を、杏寿郎は知らない。廊下に踏み出した槇寿郎の影に、杏寿郎はもう一度声を掛けた。
「父上、お嫌ならそうおっしゃってください」
「……俺のやめろをお前が聞いたことがあるか?」
 杏寿郎が口ごもったのを、槇寿郎は「そういうことだ」と鼻で笑った。
「では、もし」
 鬼殺隊に所属し続けることと同じように、我を通そうとしたのなら受け入れてくれるのか。己の意思のみで関係を変えてしまえる、その質問を口に出すことが恐ろしく感じられて、槇寿郎の睥睨を受けるよりも先に、杏寿郎は口をつぐんだ。
「杏寿郎」
 音もなく部屋に戻った槇寿郎が、杏寿郎の傍らに膝をついて顎をすくい上げる。逆光のせいか、透ける髪と瞳が光るようだった。見返そうとした目の端に夕日が差し込み、杏寿郎は眩んだ目を強く瞬いた。その隙を狙って、槇寿郎は至近に顔を寄せた。
「俺が剣を教えてやると言ったら、お前はどうする?」
「……っ」
 唇に触れる酒精混じりの吐息。近すぎるために焦点を定められず、言葉を詰まらせた杏寿郎の肩に手を置き、槇寿郎は杏寿郎の体を跨いだ。
「本当にこちらでいいのだな?」
 しゅるりと帯を解き、次いで腰紐を解こうとする槇寿郎の手を、杏寿郎がぐっと掴む。掴まれるままに手を止めた槇寿郎は、吐息だけの笑い声を漏らした。
「なんだ、決めてきたのではないのか」

投稿日:2021年5月31日