水籠もり

 酒気が薄らいだせいで、霧が晴れるように思考が鮮明になりだしている。槇寿郎は危機感を抱いたが、人の道を外れようとする息子に背を向け、部屋の隅に追いやられた酒を取りに行くのもまた恐ろしいことだった。
「……茶道ではいかんか」
 現れては消える過去の記憶から一つ、この状況から逃れる助けになりそうなものを選び取る。往生際が悪いと言われようと、易々承諾できるものではない。その場しのぎの出任せと思われないよう、訝しげな顔をした杏寿郎に向けて、槇寿郎は提案を補足する。
「人に教えられるような腕ではないのだが、瑠火に習ったものだから、お前の求める条件に適っていると思うのだが」
「……父上が茶を嗜まれるとは存じませんでした」
「ああ、その程度のものなのだ。もう長い間触れていない。やるなら道具を探すところから始めねばならん」
 茶筅と茶杓、茶碗さえあればいいと瑠火は言っていた。茶席を設けるのならば話は別だが、身内で点てる分には最低限の道具があればどうにかなるだろう。息子を相手に、おもねるようなことをしている情けなさを感じながら、槇寿郎はどうだと目顔で聞いた。
「……それを千寿郎と、というわけには参りませんか」
「何だと?」
「父上が懸念された通りあの子はまだ子供です。稽古始めは六歳の六月六日と申しますが、今の年齢でも、まぐわうの何のということには早いと思うのです。あ、決して千寿郎を邪魔に思うのではありません!」
 慌てた様子で弁解する杏寿郎に、それは分かっていると槇寿郎は頷き返す。ただそれだけのことに赦されたような顔を見せて、杏寿郎は目を伏せる。
「先程お話していたとき、昔は父上と二人きりだったこともあると思い出しました。この際ですから正直を申しますと、俺は千寿郎が生まれたばかりの頃、母上を取られたと思うたことがあります」
 嫉妬と呼ぶには足りなさすぎる、幼心に抱いた寂しさからくる羨望を、本心から恥だと思っているらしく、杏寿郎は唇を引き結んだ。千寿郎も交ぜようと言ったときに、躊躇いを見せた理由はそこなのかと、槇寿郎は項垂れる姿を思い出す。
「弟がいる、兄でいられるという幸福が加えて与えられたのだと、分かっていなかったのです。失われたものは何一つなかった。俺が今、安心して家を出られるのも、千寿郎の存在あってこそです。……あの子は巻き込まずにおきたい」
 最初に言い出したのは己であるものの、思い留まらせる口実となるようにと思ってのことであったから、杏寿郎の申し出を断るべくもない。槇寿郎は息子に良識が残っていたことに胸を撫で下ろしたが、ぱっと上げられた杏寿郎の顔から、接がれて出てくる言葉を予見して、知らず胸の前で組んでいた腕に力を込めた。
「茶道具は後で探すとして、千寿郎が戻るまでの間、俺に父上を抱かせてはくださいませんか」
 真っ直ぐ向けられた瞳には、杏寿郎にしては珍しく、必死さと逡巡が揺らいで見える。槇寿郎は痛ましさすら感じる息子の目を見ていることができずに顔を背けた。
 今ここで突き放せば叶うだろう。代案を、それも亡き妻との思い出という箔をつけて出したのだ。杏寿郎もこれ以上食い下がるのはただのわがままであると承知しているはずだった。
 それに、受けるとしても、男に抱かれる作法が分からない。
 思い出話を刷り込まれ、絆され浮かんだ考えに、槇寿郎は眉根を寄せた。
 給金が十分に出るとはいえ、鬼殺隊の休暇は療養とほぼ同義だ。鬼を倒すことがまず第一で、どこぞの誰かとねんごろになる機会は少なく、遊里に繰り出すという知恵がつく前に命を落とす隊士が大半だ。人肌恋しさから、互いに慰め合う程度のことは珍しくもなかった。
 槇寿郎は炎柱としての在任期間はもちろん、上級の隊士としての立場も長い。男女の別なく、任務の途上で助けた隊士に後々に、情けをかけてほしいと頼まれることは少なからずあった。死地に向かうような顔で乞い願う彼らは、まぐわった後の気がかりがない者であっても、決まって面倒は掛けないと口にする。断った相手が死んでから、公平でいなければという思いが強くなり、結婚を機に引く手が途絶えるまで一度も引き受けたことはなかったが、男が男に抱かれるには、それ相応の手間がかかるものなのだろう。仮にここで首を縦に振ったとして、おいそれとできるものではないはずだ。
 女の抱き方を知りたいのなら、まずは自分が杏寿郎を抱く方が、稽古の手順として理屈に合うのではないか。
 思索にふける中で思い浮かべた、息子と夫婦のように睦み合う光景は、首筋に刃を突き立てられたかと思うほどのおぞましさだった。この想像を乗り越えた上で言うのかと、槇寿郎は化け物を見るような心地で杏寿郎を見た。
「ならん」
 一言撥ねつけると、辛抱強く、期待を込めて待っていた杏寿郎の目が、傷ついた色に染まった。道理はこちらにある。だというのに、触れ慣れた悔恨の情が胸に湧く。
「この話は終いだ。金輪際、道理に反するようなことは口にするな」
「……はい」
 頭を下げた杏寿郎に、布団を戻しておけと言い置いて、槇寿郎は部屋を出た。過去を掘り返したせいで、酒で眩ませていた現実が、堰を切った濁流のように脳裏を暴れ狂っている。すぐにでも飲んで収めたかったが、酒を拾うための数歩が惜しかった。杏寿郎からか、仏間からかは分からないが、とにかく一刻も早く遠ざかりたかった。



   ◇



「父上、酒に付き合っていただけませんか」
 久しぶりに現れたかと思えば、杏寿郎は盆の上に酒器を揃えて持ってきた。酒量を過ごすな飯を食え、と千寿郎以上にうるさく言う奴にしては珍しい。しかもあの忌々しい隊服を着ていない。できすぎた光景を疑いの目で見る槇寿郎に構わず、追い出されないことを許しと心得て、杏寿郎は部屋に入り込んだ。
「……珍しいな」
 中身は清酒か。己の酒は手放さないまま、槇寿郎は並べられた盃を横目で見る。
「先日二十歳となりました。ここまで育ててくださった父上に、御礼を申し上げたく参りました」
 育ててなどいないし、成人したということを忘れてすらいた。当てつけかと思う間もなく、まずは一献、と酒を注がれる。朱塗りの盃を片方満たしたところで、槇寿郎は杏寿郎の手から徳利を奪い取った。
「お前の祝いだろう」
 自分の酒をやってもいいが、祝い酒として買ってきたのだから、それなりの謂れがあるはずだ。注ぎ終えた盃を顎でしゃくると、杏寿郎はしゃちほこばって礼を述べ、神妙な顔で盃を手に取った。呑み干す顔は水でも飲むように涼しげだ。子供の時分に舐めさせたときは、自分から欲しいとせがんだくせに大層なしかめっ面を見せていたが、長じた今はいける口らしい。槇寿郎ももう一方の盃を取り上げ傾けた。
「水だと?!」
 酒ではない。水のようでも軽くも薄くもない、真実、ただの水だった。匂いで気づかなかった不覚を悔いながら、槇寿郎はさも満足そうに笑う杏寿郎を睨めつける。
「謀るようなことをして申し訳ありません。御礼に参ったのは本当ですが、父上のお体が気がかりだったのです」
 差し出される懐紙を押し返して拳で拭い、口直しに手持ちを呷る。どれだけ苛立って見せようと、動じた様子がまるでないところが何とも憎らしい。
「飲ませたくないならせめて茶にしろ」
 水盃など縁起でもない。この際飲みかけでも構うまいと空いた盃に酒を入れて押しやると、杏寿郎は今度も大人しく手に取った。慎重に口にしたおかげで噎せこそしなかったが、子供の頃にしていたように、しっかりと眉を寄せている。味が分かってたまるかと、聞こえよがしに舌を打つ。
「……今度茶の点て方を教えてください。千寿郎も共に」
 干しきれない盃に目を落とす、その面差しが呼び起こす感傷を、槇寿郎は喉を焼く痛みで上書きした。

投稿日:2021年3月16日