呼び水
「……いいだろう。ただし条件がある」
槇寿郎は杏寿郎の手を握り返した。刀を手放して久しい槇寿郎とは反対に、日々繰り返される任務と鍛錬によって硬く厚くなった手だった。まめが潰れて痛むのを、黙って耐えていた日が遠くに霞む。
「鬼殺隊を辞めろ」
明らかな動揺が走った手を握ったまま、槇寿郎は寝床から身を起こす。引き下がろうとする杏寿郎の手のひらを両の手で包み込み、昔にやったように顔を覗き込む。目の高さが並んだ分、楽にできた。
「辞めた後の暮らしが心配か? 案ずることはない。代々柱を輩出してきた我が家には、手つかずの金がたんとある。お前が百まで生きようと何の憂いもない。……ああそうだ、千寿郎も交ぜてやろうな。お前ばかりが父との時間を持つのも不公平だ」
じわりと手のひらに汗をにじませ、見開いた目で見つめ返していた杏寿郎が、叱られて気落ちした子供のように顔を俯けた。正気に返ったかとホッとして、槇寿郎は杏寿郎の手を放す。すっかり酔いが醒めてしまった。舌打ちでもしたい気持ちで、枕元にある酒に手を伸ばす。ただでさえ見たくない隊服が一層嫌いになりそうだった。
「鬼殺隊は辞めません」
決然とした声が耳を打つ。ぴりりと不快を面に出した槇寿郎を、杏寿郎は構わず抱いて持ち上げた。
「幼き日に母上に教わりました。弱き人を助けるのは強く生まれた者の責務だと。道半ばで使命を投げ出すことはできません」
協力する気のない大の男を軽々持ち上げる。柱ともなれば当然できるだろうが、杏寿郎の成長をその目で見ていない槇寿郎は驚いた。酒の酩酊とは異なる浮遊感が胃の腑を襲い、うっと怯んだ顔を、色ばかりがよく似た眼がまじまじと見下ろす。
「しかし千寿郎も交ぜるのには賛成です。気が逸るあまり失念しておりました。まったく父上のおっしゃる通りです。兄として不甲斐ない」
槇寿郎を抱いたまま器用に障子を開け、杏寿郎は声高らかに千寿郎を呼んだ。
「千寿郎! 火急の用だ、今すぐ仏間に来い!」
「お前ッ!」
正気に返ったのではないのか。常軌を逸した提案にさらなる非常識を上塗りされて、槇寿郎は慄きもがいたが、現役で炎柱を務める杏寿郎の体は巌のようにびくともしない。家と酒屋の往復しかしていないことが悔やまれる。まるで散策でもするような軽やかな足取りで、杏寿郎は仏間へと進んでいく。
「気でも狂ったか!」
「異な事をおっしゃる。母上だけ除け者にするなど父上らしくもない」
立ったままで失礼と、障子が開けられた途端に、嗅ぎ慣れた線香の残り香が胸を満たす。酒が入った状態ではついぞ入ったことのない部屋だ。吐き戻したいような衝動に駆られて、槇寿郎は体を固くする。その反応をどう取ったのか、杏寿郎は壊れ物でも扱うように槇寿郎をそっと畳に横たえた。杏寿郎の肩越しに、長押に並ぶ先祖の顔を見る。
「今すぐ布団を持って参ります」
「待っ……」
「兄上、どうかなさいましたか」
情けないという思いもかなぐり捨て、杏寿郎の袖に取りすがろうとしたとき、千寿郎がひょこりと顔を覗かせた。
「うむ、よく来た。すぐに戻るから父上を引き止めておいてくれ」
「は、はい!」
普段怒鳴りつけてばかりいるからだろう。入れ替わりに入ってきた千寿郎の顔にはかすかに怯えがにじんでいる。本気でこんな子供を巻き込もうと言うのかと、槇寿郎は戦慄した。
本を正せば己の撒いた種だが、鬼殺隊を引き合いに出せば諦めるだろう杏寿郎への、駄目押しに過ぎないつもりだった。悪い冗談ではないか。日がな一日酒を飲むしかしない父を懲らしめようとしているだけではないのか。ぐるぐると巡る考えを押し込めて、槇寿郎は千寿郎に向き直る。
「千寿郎、お前、杏寿郎から何か聞いているか」
「急ぎの用だと呼ばれたので参りました。ご用はまだ何も」
「本当に何も聞いていないか?」
正座した千寿郎は、問答を仕掛けられた小僧のように堅い面持ちでぶんぶんと首を振った。全体に作りは小さいが、幼児の頃以外ろくに見てこなかったために、大きくなったものだと感慨深い。しかし追憶にふけっている暇はなかった。
「遣いを頼まれてくれ、千寿郎。もうすぐ瑠火の――お前達の母の十三回忌なのだが、例によって俺がどうでもよいと言ったために、杏寿郎を怒らせた。少し遠いが昔に瑠火と行った店がある。行って、引き出物にする菓子を二三見繕ってきてほしい」
「はい、分かりました。……母上がお好きだったお店なのですか?」
「うむ……いや、好きかどうかは分からんが……」
「思い出のお店なのですね。父上はあまり母上の話をされないので、お聞きできて嬉しいです」
緊張がとけたのか、はにかんだような顔で千寿郎は笑った。
「行ってくれるか。善は急げだ。準備を進めていると知れば、杏寿郎の怒りも少しはましになるだろう。もし店がなくなっていても日を改めるから気にするな。杏寿郎との話は長くなりそうだから、適当な茶屋で休んでから戻るといい」
「分かりました。……差し出口を致しますが、兄上も父上を心配されてのことだと思います。あまり飲みすぎないでくださいね」
槇寿郎が持った酒瓶に目をやって、千寿郎は困った顔をした。握ったまま杏寿郎に抱えられてきたことに気づき、槇寿郎は慌ててそれを放して、深く頷いた。
「ああそうだな、控えよう」
ぱぱたぱたと軽い足音が遠ざかっていく。
槇寿郎はほぅと息を吐いたが、
「千寿郎を交ぜようと言ったのは父上ではありませんか」
耳元で聞こえた声に肌を粟立たせた。
庭から回ってきたのだろう。そうでなければ千寿郎と鉢合わせたはずだ。耳を押さえながら振り向いた槇寿郎の前で、杏寿郎は俵抱きにしてきた布団を悠々と延べる。
「……もう十分だろう。酒は控える。千寿郎ともちゃんと話す。もちろんお前ともだ」
「何の話です、父上。俺は怒ってなどおりませんし、父上は母上の弔いはいつもきちんとしておられる。母上の十三回忌が今年ではないこともご存知でしょう」
倒してこぼさないようにという配慮か、杏寿郎は槇寿郎の脇にあった酒瓶を取り上げて、部屋の隅に移動させた。息子がそばに来ただけだというのに感じた怖気を抑え込み、槇寿郎は膝の上で拳を握った。
「ふざけるのはよせ。今なら冗談で済む」
「冗談など。父上もそれを分かっておられるから千寿郎を遣いに出された。もし本当に冗談と思っておられるなら、何もなさらなかったはず」
家を出ることもできたが、槇寿郎が千寿郎と共に出ていたのなら、杏寿郎は追ってきただろう。十三回忌は嘘なのだ、呼び戻すには十分な理由になる。槇寿郎の言とは違い、杏寿郎の言う「千寿郎も共に」というのは出任せではない。千寿郎を確実に逃がす――被害を最小に抑えるには、槇寿郎が場に残るのが最良だった。
「千寿郎にはあとで俺から言っておきましょう」
槇寿郎の正面に座し、杏寿郎は稽古を始める時のように礼をした。
「では父上、よろしくお願い致します」
- 投稿日:2021年2月7日