昔日を偲ぶ
「本当によろしいのですか? 何本か取っておかれても……」
「やめると決めた酒を取っておくのもおかしいだろう。慶弔で必要とあらば、その時また求めればいい」
「承知しました。……これは当分料理酒に困りませんね」
「多すぎて困るようなら流しても構わんぞ?」
「そんな! もったいないです!」
「そうか……」
酒を処分すると言ったのは槇寿郎で、千寿郎はその手伝いをしたに過ぎない。ならばと思って発した案は、素直な言葉でもって退けられた。己の行いが招いたことではあるが、最後のひと瓶を使い切るまで禊が始められないような気がするだけに、少し残念だ。
家のあちこちから掻き集めた中には、槇寿郎が自ら買い求めたのではないものも少なからず混じっている。種々の酒瓶が縁側にずらりと並ぶ様子は、ちょっとした品評会のようだ。好きで飲み始めた酒ではなかったものの、味を覚えた今となっては、長く眺めているのは目の毒だった。
目を逸らした槇寿郎は、酒瓶の列の端にちょんと置かれた包みに目を留めた。
「千寿郎、あれは?」
「あ、忘れておりました。縁の下にあったもので、ご内証のものかもしれないので開けずにおいたのですが……」
酒の種類が分からないのだろう。瓶の大きさを基準に並べていた千寿郎は、包みを取って差し出した。千寿郎なら両手、槇寿郎なら片手で持って丁度という大きさのそれは、一年どころではない年数が経っているらしく、包んだ新聞紙の色がすっかり変わってしまっている。
隠し持っていた酒の量だけでも随分な恥だ。この上に千寿郎に見せられないものが出てきたのでなければいいが。
顔を曇らせた槇寿郎から何かを察したか、千寿郎は「水屋の空きを見てまいります」と場を去ろうとする。
「待ってくれ」
「はい」
「……運ぶのは俺がやるから、帰りに入れる物を持ってきてくれ」
「はい、分かりました」
千寿郎が人の機嫌に敏くなってしまったのは誰のせいか。
槇寿郎はため息をついて、上下の定かでない包みを開いていく。新聞の見出しに引っかかるものを覚えたが、記憶を確かめる前に、中から出でた土塊
がぼろりと形を崩した。
「おっと」
両手を添えて土塊を支えた槇寿郎は、慎重に手をずらし、新聞紙をもう少し開いて全体を見る。元は球形、一見すると土に見えたが、枯れた植物の塊だ。浮かんだ考えに確証を持たせるために、新聞の端にあるはずの日付を探る。
刷られていたのは、忘れもしない、瑠火が他界した年だった。
「……釣りしのぶか……」
玉やら舟やらの縁起物を象り作られた土台から、青々としたシノブが伸びやかに茂る夏の風物詩。起きて庭を歩くことすらままならなくなった妻の慰めになればいいと思って、任務で赴いた先で買ってきたものだった。
槇寿郎は痺れのようなものを感じながら、新聞の日付を指でなぞる。自身は家にほとんどいないから、水をやり、軒に吊るす役目は誰に頼んだのだったか。秋の気配がしてきた時期に、瑠火と話しながら、軒から下ろした釣りしのぶを新聞紙に包んだことは覚えている。一度読んだ記事でも瑠火と話すと楽しい。冬の到来に不安を覚えながらも、翌年の夏にも釣りしのぶを出せる気でいた。
「……父上?」
ハッとして声がした方に顔を向けると、千寿郎が戻っていた。手には行李を持っている。
「どうかなさいましたか?」
「ああ……」
槇寿郎はもう一度、釣りしのぶだったものに目を落として、千寿郎に見えるように傾けた。知らなければ土塊にしか見えないだろうそれを見て、千寿郎はやはり怪訝な顔をする。
「中身は釣りしのぶだったんだが、見ての通りだ。……瑠火が生きていた頃に買ったもので、すっかり放置してしまったから」
「それは……残念です」
「流石にこれは捨てるしかないだろうな」
乾ききった状態で幾年も過ごさせたのでは、いくら名前通りに強いシノブと言えども難しいだろう。記憶はよみがえれども、生きたものはそうはいかない。槇寿郎は元の通りに包み直した。
「失礼します。……わっ」
槇寿郎の部屋の障子を開いた千寿郎は、部屋の有様に驚きの声を上げたが、すぐに息を止めたように黙りこくった。その様子にまたもや自分の今までの行いを振り返ることになった槇寿郎は、努めて優しい声を出そうとした。
「どうした?」
だが、出たのはいつもとさして変わらない声音だった。ここで様子を変えては千寿郎を怯えさせることは分かりきっているから、取り繕うことは諦めて、中に入るよう促す。一歩であれ、千寿郎が廊下から部屋に入れるようになったのは、進歩と言うべきか。
「何か用か?」
「はい。……あの、失せ物ですか?」
「ああ……釣りしのぶを見つけてくれただろう。風鈴をつけていたはずと思い出してな」
大中小の箱に、道具入れ、それに今はいらない季節物を収めた入れ物まで持ってきて、槇寿郎の部屋は骨董屋のような状態になっている。
「風鈴……ですか」
首をひねる千寿郎に、槇寿郎は手を振った。
「風鈴は見つかったんだ。しかし紐が古くなっていてな。替えを探すのに手間取ってしまった」
「言ってくださればお出ししましたのに」
「お前も自分の用があるだろうし、我が家のどこに何があるのか全く知らんのではいかんだろう。自分で片付けられるから気にせず置いておいてくれ」
かつてしまい込んだ物の場所はかろうじて覚えていたが、もっと日常に必要な物の場所が分からない。瑠火の生前は衣替えなどを率先してやろうとして、一家の主がするものではないとたしなめられたことすらあったというのに。
槇寿郎は紐を巻き直す手を止めて、千寿郎に向き直った。
「それで、お前の用件は何だ?」
「失礼しました。先の釣りしのぶはまだお持ちでしょうか?」
「ああ、そこに」
床の間に置いた包みを指すと、千寿郎はほっとした顔をした。
「捨てるのは忍びないですから、菜園に鋤き込んではいかがかと思いました。それで、きゅうりとなすびを植えて、精霊馬にするんです」
考えてから来たのだろう。復唱するような調子で千寿郎は言った。
「それはいいな。……頼めるか?」
「もちろんです。お任せください」
後日談
「お断りします」
てっきり承諾が得られると思っていた槇寿郎は、千寿郎の意外な抵抗を受けて驚いた。
釣りしのぶの一件から、かつて吊るしていた風鈴のことを思い出し、長年しまい込む内にたわんでしまった短冊を替えるついでに、書き直そうという話だった。元の短冊は杏寿郎が七つの時の書で、瑠火の文字を手本にしたものだ。それを台紙に貼って保管するというのは千寿郎が言い出したことで、槇寿郎とて異論はない。ならばと代わりを求めるのは道理ではないだろうか。
千寿郎も瑠火の子で、書の心得は槇寿郎よりもある。どこで習ったかと問えば、学校で習った分ももちろんあるが、多くは瑠火の書いたものを手本にしたのだという。歴代炎柱の書を見た瑠火に、お家の流儀がおありでしょうにと言われながら、手本を書いてもらった甲斐があるというものだ。
「……父上のお部屋には、最近お客様が見えるでしょう。そんな人目につく場所に未熟な字を晒すのはいやです」
「未熟なものか! それに俺の部屋まで来る客となると一握りだ。千寿郎の知る人ばかりだろう」
「それが恥ずかしいと言っているのです」
「そんなにいやか……」
槇寿郎がしょんぼりと肩を落とすと、千寿郎は哀れを催したらしく呻くような声を漏らしたが、それでも首をはっきりと振った。
- 投稿日:2022年6月18日