蛇の目でお迎え
見上げる形でしか話せないのだから、父の背が己よりも高いことは重々承知していたはずだったが、近頃一段と人の増した渋谷駅の雑踏の中に、優に頭一つ抜けて見える金色を見つけたとき、千寿郎は初めて槇寿郎の背の高さを実感した。
幼い日に兄と二人、庭で剣を教わったときの槇寿郎の姿はおぼろげに記憶に残っているものの、それが兄から聞いた話を、兄の姿に重ねて想像したものでないという保証はない。千寿郎の中にある「父」という言葉が示していたのは、長らくの間、万年床に寝転がっている姿か、通い徳利から直に酒をあおる丸まった背中だった。
身内である千寿郎からすれば、遠くを見ているような槇寿郎の姿は、慣れぬ人混みに所在なげに佇んでいるのだと察せられたが、異質な髪色をした長躯の男は、余人の目にはそうは映らないらしい。千寿郎が乗ってきた列車に加えて、反対から来た列車が入線したばかりで、端で立っている人ですら邪魔そうに見られる混雑ぶりだというのに、槇寿郎の周りにはぽかりと空間ができていた。
声を出しても届かないだろう。潮流のように無感情な人の流れを泳ぎきり、通学鞄の重さによろめきながら槇寿郎の元に辿り着いた千寿郎は、それまでぼんやりとしていた槇寿郎の目が、明かりが灯ったようにぱっと輝くのを見た。
「千寿郎! 会えてよかった!」
「どうかなさったのですか?」
「急な雨だったからな。停車場で待つつもりが歩いてしまった」
「そんなわざわざ。ありがとうございます」
たったそれだけのために、と千寿郎は驚いた。
雨が降り始めたのは列車に乗ってからだった。国鉄渋谷駅と玉電渋谷駅、新町駅と実家。その間の移動はどうしたって雨を避けられない。自身が濡れることはどうということなかったが、今日は友人から借りた本を持っている。通り雨ならいいけれど、と思いながら列車を降り、濡れた人や傘を持つ人の多さに本降りであることを察し、常よりさらに眉を下げながら出口に向かった矢先の邂逅だった。
傘を差し出す槇寿郎の髪は、よくよく見ればしっとりと濡れている。ふと気づいて一歩踏み込み見てみると――槇寿郎は何かおかしなものでもあるのか、とばかりに自分も後ろを見る。本気で背後を取らせないようにされると難しかったので助かった――色が黒であるせいで分かりにくいが、二重回しの濡れ具合は前と後ろで大違いだ。
「走られたのですか」
「……少しな。ほら、入れ違いになるといけないだろう」
千寿郎の目つきから咎められていることを察して、槇寿郎は言い訳がましい口調で言った。さっと後ろに隠された風呂敷の中身は、脚絆か替えの履物か。
「人をはねませんでしたか?」
「そんなヘマをするはずがないだろう」
おかしなことを言う、という風に槇寿郎は笑ったが、千寿郎からすれば、玉電を走って追い抜いて来る方がおかしなことだ。炭治郎から伊之助が列車と駆け比べをしようとした話を聞いた時、その無鉄砲さに散々笑ったが、まさか自分の身内に実行する者がいるとは思わなかった。
「千寿郎?」
行かないのか? と首をかしげる槇寿郎に、今行きますと答えて後を追う。わずかな間に人がはけて歩きやすくなっているが、そうでなくとも父の姿を見失うことはないだろう。人混みに紛れない、背の高い人なのだ。
夜ならばいざ知らず、昼日中だと目立っただろうな。
見慣れた沿道を走る槇寿郎を想像して、千寿郎はくすりと笑った。
- 投稿日:2021年4月16日