エデュケーション
多目的室に運び入れたトレーニングマットの上で、シライは正面に座るクロノと目を合わせた。
クロノにセックスのやり方を教える。それが今回のシライの役割だ。
スーツの下にはいつのもパーカーではなく、シャツとネクタイを着用している。稽古を付けるのだ。やってみせ、やらせてみせる。今この場はもちろん、任務時のクロノの服装との齟齬も少ないほうがいい。トレーニングウェアでもいいところを、わざわざ着替えた形だった。
ことの発端はチャイヌにある。
ターゲット救出のための足掛かりとして、チャイヌの開眼の姿の一つ、チャニイの「口説きテクニック」が有効だった。チャニイから直接教われないのは言わずもがなの状況だ。それでも学びを諦めきれなかったクロノは、シライに相談を持ちかける。
そこまではいい。シライはクロノの師匠なのだから、何かを学ぶとなった時に頼りにするのは当然の成り行きだ。色仕掛けを学ぶことの是非はともかく、よそに行かれるよりずっといい。
ところが言うに事を欠いてクロノは、「おじさんはそういうの苦手だろ。誰か紹介してほしい」と宣ったのだ。
いつもはシライが好むと好まざるとにかかわらずシライの能力の高さを喧伝をするクロホンも、この時ばかりはだんまりだった。何か言えよとシライが見ても、クロホンは目をそらすばかり。クロホンのカメラは広範囲を捉えられるのだから、本体角度を変えるのではなく画面表示上の目をそらすだけ、というのは白々しいほどの見ないふりだった。
十歳で巻戻士本部に連れてきたとはいえ、クロノに一般常識がないわけではない。巻戻士としての訓練メニューの他に、基礎的な教育カリキュラムも組んである。このカリキュラムの存在もチャイヌの在籍に端を発することは、話の本筋に関係ないので置いておく。ただでさえしっちゃかめっちゃかなのだ。これ以上チャイヌのことを考えたくなかった。
善良なクロノのことだ。好きでもない人間相手に自分がさも好意を持っているように見せかけて、情報を引き出すことの異常性は、十分に分かっているだろう。色仕掛けを織り込んだ状態で任務を完了したなら、対象者の記憶には取った行動が事実として残ることになる。相手が本気にすればするほど有効打となるために、あまり人を傷つけたくないというクロノには不向きな手段だ。
シライはクロノの性質を知る指導者として、口を酸っぱくして言った。決して自分が気乗りしないという理由からではない。
返ってきたのは真っ直ぐな眼差しと、「分かってる。それでも、できるようになっておきたい」という言葉だった。「そんなに言うならおれが教えてやる」と言ったのはその場の勢いで、売り言葉に買い言葉と表現するには、クロノに非がなさすぎる。
座学を終え、実地訓練を始める前に、スマホンには絶対にクロノの心身の安全を優先するよう念押しした。
クロホンには、シライの負担よりもクロノの学習を優先することが組織のためだと言い聞かせた。その甲斐あって、クロホンはAIらしからぬ物言いたげな表情を見せながらも何も言わない。
クロホンとスマホン、二台ともに録画をさせるのは、映像が改ざんされていないことを保証するためだ。シライに映像を改ざんする技術・手段があるかどうかはこの際関係がない。データは機密情報として、規則に従って保管される。保管期間の起算点はクロノが成人する日だ。
シライはクロノの頬に触れた。
ふくふくとしたとまでは言えないながら、大人の男と呼ぶには程遠い、柔らかな頬だ。本来の目的を逸脱して触っていたくなる、そういう手触りをしている。格闘術を教え、その後に手当てをするために触れることはあっても、慈しむ意味合いで触れることは稀だ。クロノが一人前になってからは特に。
シライはクロノの頬を離せなくなる前に手をずらして、クロノの耳殻に指を滑らせた。親指の腹と中指の側面で挟んだ耳殻はひんやりとしてなめらかで、クロノが一度だけ揺らした肩に、くすぐったそうに細められた目に、どうしようもなく心を揺さぶられる。
シライは静かに息を吐き、クロノの肩に手を置き、軽く掴んだ。
クロノの身長は順調に伸びている。頭抜けているわけではなかったが、同じ年齢の子供と並べれば、鍛えていることは一目瞭然だろう。
それでも同じ背丈の成人男性と比べれば、クロノの体つきは子供のそれだ。骨にしろ筋肉にしろ、発達途中の体には厚みが足りていない。
そのクロノが色仕掛けを行った場合、引っかかる人間がどういう手合いか。
くそったれな現実を想像して、シライの胃はキリキリと痛んだ。
クロノはシライの剣術を教わることを拒んだとはいえ、一通りの戦闘訓練を受けている。人を傷つけたくないと言って譲らないクロノの成績は、防具を付けた模擬戦闘ですら他者に大きく水をあけられていたが、素人がクロノを力尽くでどうこうするというのは現実的な話ではない。成人が相手であってもだ。それにクライミングやトレイルランニング、ケイブダイビングといった戦闘要素のないものに関しては、クロノは水準以上をマークしている。クロノが逃げの一手を打つのなら、敵わないはずがなかった。
問題は、クロノが「どうこうされること」を受け入れる気でいることにある。具体的に知らないまま、受け入れられると思っていることも問題だった。
シライがクロノの後頭部に手を回すと、刈り上げられた髪が柔らかく刺さった。
「おじさん?」
次は? と問うてくる瞳に欲はない。
当然だ。クロノはそもそも色仕掛けの「色」が何を意味しているのか、口説かれた相手の理性のタガが、何を期待して緩まるのかを理解していなかった。恋人になる。それはいい。確かにそうだ。間違いではない。デートをするのもそう。だが相手はお行儀よく「次」に期待する者ばかりではない。
「……まっとうなやり方をする必要はねぇ。マットだけに」
シライはクロノに触れていた手を離して、自らの膝の上に戻した。
「クロノ、おまえの目的はセックスすることじゃねぇ。そこが作戦上有利なところだ。分かるな?」
シライの表情を写したように、クロノは真剣な顔で頷いた。
「しなくてもいいから、行為の成立にはこだわらなくていい」
「そうだ。……相手は大抵おまえよりも大人だ。この続きがどうなるかを知ってる。想像させろ、クロノ。おまえが実際にやる必要はねぇ」
トライアンドエラーはクロノの十八番だ。クロノが想像し、受け入れられるつもりでいることを上回ることが起きた場合でも、きっとクロノは耐え切ってしまうだろう。満載喫水線を超えたって、クロノは背負う荷物を増やすのをやめない。それならシライがするべきは線を引くことではない。
シライは自分のネクタイの結び目に指を掛けて、やめた。
「クロノ、おれのネクタイほどけるか?」
「しなさすぎて忘れたのか?」
わざとらしさのない、本当にそう思っている顔だった。
「ほっとけ。訓練の一環だ。ほどけ」
膝立ちになったクロノはシライがするよりも丁寧な手つきでネクタイの結び目を緩め、小剣を引き抜いた。そのまま片手で抜き取ってもいいところを、優勝メダルを掛けるがごとく両手が掛かったタイミングで、シライはクロノの腰を抱きすくめる。
「わっ」
「……警戒してるな」
「それはするだろ」
シライの肩に手を置いたクロノは、シライがどう動いてもいいよう気を張っている。
「おまえのこと散々投げ飛ばしたもんな」
シライは笑いながら、抱きしめたクロノもろとも自分の体を後ろに倒した。
「うわっ」
予想外だったのだろう。クロノの驚く声がもう一度聞こえて、背中がマットに当たる衝撃。クロノの体の影から見上げた視界、見守るスマホンの緊張した顔、クロホンの無表情。シライは捕まえていたクロノの腰を解放して、両手をぱたんと体の両側に落とした。
「……何するんだよ、おじさん。潰したら危ないだろ」
「おまえの重さくらいでどうこうなるかよ」
過程を知らずに今の状態だけ見れば、クロノがシライを押し倒している格好だった。
なるほど、こう見えるのか。
シライは見下ろしてくるクロノの顔を見上げる。寝ているところを起こしにきたようにしか見えない。予想した通り、体裁だけ整えてもどうにもならないことが分かった。
シライは顔の横にあるクロノの腕に手を掛けた。やっぱりまだ細ぇな、と童話に出てくる魔女のようなことを思ってから、もう一度手をマットの上に落とす。
「セックスは好きなやつとするもんだ、なーんて誤魔化しは言わねぇ。性欲は別モン。色仕掛けに掛かった相手から向けられるものは悪意じゃねぇ、あくまで好意で、それがやっかいだ」
シライが寝転んだまま語る間に、仕事をやり残さない主義のクロノはシライの首からネクタイを取り外した。畳んだネクタイをシライの顔の横に置く。シライが意味もなく、動くものを目で追う習性により横目で追ったところで、遮るようにクロノの手がシライの頬に触れた。
おっ、と思ったシライがクロノの顔に視線を戻すと、勝手が分からないらしい、愛撫でも何でもない手つきでクロノに耳を触られた。
「くすぐってぇ」
言って、クロノの手を耳から外して、握る。目を見ながらそっと指を撫で擦ると、クロノが妙なものを見るような目でシライを見た。手指の感覚は鋭い。意図した通りの感覚が生まれているはずだった。まさか一度も自慰をしたことがないとは言うまい。
「……おじさんもおれのネクタイほどいて」
取り返すように手を掴まれて、襟元に導かれる。座学の時点で今後の流れは教えてある。真面目なことが仇になったか、ベッドの上で見せるべきではない無表情だ。これがクロノの地顔なのは知っているが、色仕掛けとしては落第もいいところだ。下手に表情を作らせるより、崩したいと思わせる方向でいくべきか。
クロノのネクタイに手を掛けたシライは、それが自分がやった物であることに今さら気づいて目を丸くした。
巻戻士のスーツは制服だ。普段から使えるよう、そして悪目立ちすることがないよう、クロノの持ち物にまぎれてしまうくらいオーソドックスな柄を選んだ。シライが見たのはやった直後、クロノに言って付けさせた時くらいだ。クロノが正式に配属されてからは顔を合わせる頻度も減ったから、実用しているかは気にしていなかった。気に入ってくれたようではあったが、制服とはつまり作業着で、破損汚損はザラなのだ。
「使ってくれてるんだな」
クロノがしたようにゆっくりとほどく。思わぬうれしさで自然と口元が緩む。小剣を抜き、重力に結び目を崩させて、あとは首から外すだけ。
クロノはシライがやった意地悪を真似ることなく、シライがネクタイを片手にまとめて取るのを見守ると、畳んだネクタイを受け取り、シライのネクタイの隣に並べて置いた。
「今日は特別だから」
「そか」
「……続き、教えてくれ」
クロノはそこが定位置だと言うように、シライの顔の横に手をつき直した。表情は真剣そのもので、これが訓練だということ思い出させてくれる。
「本番で、ネクタイがねーくたって慌てるなよ。服装に合わせて臨機応変に対応しろ」
緊張をほぐしてやるつもりで言ったギャグは、今日も反応が得られなかった。
- 投稿日:2024年5月5日
- 原作が今後どうなるか分からないのにスパイ編が終わったあとの話を出すのはどうかと思ったのですが、今書いとかないと書けないかもしれないので。連載中の作品って難しい。あとネクタイをはずさねくたって……いやこれはつらいな……と考えてる時間もキツい。