月を見る

ひなべさんのイラスト『なんかいかがわしい中学生のシラクロ。謎時空。』を元に書いた小説です。単品だと意味が分からないと思います。

 蝉の声というものを、クロノはあまり聞いたことがなかった。
 かつては夏になると一日中鳴いていたというが、温暖化の影響で、クロノが物心つく頃には文字通り鳴りを潜めていた。
 その蝉の鳴き声が、空調のために締め切った窓の外からかすかに聞こえている。
 練習のない日だ。朝から曇り空なせいか、耐えられないほどの暑さではない。
 二人しかいないのに剣道場のエアコンをつけるのはもったいない気がして、壁のフックに鍵を掛けているシライを振り返ると、じゃあ更衣室で話そうと提案された。
 更衣室にある古めかしいウインドエアコンは冷えるまでに時間がかかるから、着替えの時にはあまり役に立っていない。他所の準備室からもらってきたものだと言うシライに、先輩は何でも知っていると尊敬を込めて言うと、おれだって顧問から聞いただけだと笑っていた。
 夏休みを利用した合宿の話をして、休憩用にそれぞれ飲み物を買ってきて。更衣室が冷える時間は十分あった。だから、体がこんなに熱いのはおかしい。
 クロノはいつもよりずっとずっと近くにあるシライの顔を見て、エアコンがちゃんと動いているかを確かめようと目をやろうとして、
「クロノ」
 あまりにも切実な声で呼ばれるものだから、シライの方に顔を戻してしまった。
 目を見てはいけない。
 石になるとか、そんな神話の怪物じみたことじゃなくて。
「……嫌か?」
 ガタガタ鳴るパイプ椅子を二つ、机代わりにすると決めたオープンロッカーの前に並べて、合宿の計画表を作るためにルーズリーフをバラまいて。利き手が同じだから肘は邪魔にならないはずが、一枚の紙に書き込もうとするとやっぱり邪魔で、シライの左腕はずっと椅子の背にあった。
 わざわざ座り心地の悪い椅子に戻る必要はないだろうと、ドリンクを買って帰ると二人してロッカーに腰掛けた。案外このままでもやれそうだなと、ルーズリーフの端にシライが落書きをする。それ清書したやつだよと言うと、気づいていなかったらしいシライは許しを請うような目でクロノを見た。
 ――その次に、どうなったんだったか。
 シライが、自分の膝の上に乗り上げている。シライの落書きを指していたクロノの右手は今、シライの左手に握られている。竹刀だこのある手だ。自分だって剣道部なのだから竹刀だこがあるはずなのに、なぜか、シライの手特有のものであるような気がする。かすかな違和感。違うって、何がだ?
「シライ先輩」
 意を決してシライの目を見たクロノは、用意した言葉がどちらなのか分からなくなった。
 お互いに無言のままでもう一度、シライの目が「嫌か?」と問う。
「いいよ」
 自分の意思じゃないような、そうでもないような。クロノが見ていない間もずっとクロノを見つめていたシライの目が、自分から言い出したくせに信じられないみたいに瞬いた。かぶさるように、嫌だと言った場合の反応が見える。それは見たくなかった。
「クロ、」
 もう決めたからそれでいく。
 握られた手をほどいてシライの肩に置いて、キスするつもりで伸び上がって、目を閉じた状態で狙うのは難しいのだと知って、シライが屈まないとどうにもならないことにも気づいて、恥ずかしさをこらえながら目を開ける。そこで、頬を両手で挟まれる。
 むに、と柔らかい感触。いちごミルクの人工的な甘い香りが、次の瞬間味に変わる。
 ピントが合うギリギリの距離で見る、ゆるりと細められた満月みたいな色の瞳。見たことのない表情。頬を離れたシライの手が、シャツの隙間から差し入れるようにクロノの襟首を撫でる。ぞわりとしたのはエアコンの風が当たったせいだろうか。
「汗かいてるぞ。……暑いもんな。熱中症になる前に中止しような」

投稿日:2024年5月6日
最初の枠のリンク先ご覧になりました? めちゃめちゃよくないですか?
その前の漫画「COTINUE?」もすっごくよくて、束の間の先輩後輩たまらん!といてもたってもいられず勢いで書きました。人の絵を見て小説を書くのを一度やってみたかったのですごく楽しかったです。