夢の夜
人さらいだと思われるかもしれない――。
そうクロノが心配になるほどに騒ぎ立てていたトキネは、いつの間にか静かになっていた。祭り囃子も人声も、ずっと後ろにある。
歩みを緩めたクロノは、向かいから歩いてきた見知らぬ大人を警戒したが、紙垂が下がった縄が掛かっている町域だ。夏祭りの夜に、子どもが歩いていることは珍しくないのだろう。クロノとトキネを一瞥して、何も言わずに通り過ぎて行った。
ほっと一息。クロノは握りっぱなしだったトキネの手首を離した。ここまで来れば大丈夫、という安心があった。しばらく歩いてから振り返る。クロノのために怒ろうとしたトキネの好意を、無下にしたことを謝る。そのつもりだった。
「……トキネ?」
いつもなら手を離したって勝手に付いてくるトキネが、クロノが手を離したその場所に留まっている。足早にトキネの元に戻ったクロノは、うつむいているトキネを覗き込んだ。
立ち並ぶ夜店に、ぶら下がった提灯。神社の参道を埋め尽くしていた明々とした光は、喧騒を離れた今もまだ目に焼き付いている。街灯はあるにはあったが、昼間のような明るさに慣らされた目では、暗がりに立つトキネの表情は分からない。
「どうかしたのか、トキネ」
「……足……痛い」
返ってきたのはいつものトキネからは考えられない、弱々しい声だった。
気づかなかったことをクロノは悔やんだ。普段着そのままでサンダル履きのクロノと違い、浴衣を着たトキネが履いているのは下駄だ。ただ歩くのですら慣れないところを、走らせたのだ。足を痛めるのは当然だった。
「ごめん」
「……うん」
「えっと……歩け……ないよな」
クロノはポケットを探ってスマートフォンを取り出すと、ライトをオンにした。
「うわ……」
トキネの足を確認して、クロノはうめいた。
痛いからだろう。トキネは鼻緒から足を抜いて、爪先立つようにして下駄の上に立っている。ちゃんと履いたならば鼻緒に当たるだろう部分が、見るからに靴ずれと分かる形で赤くなっていた。良くて水ぶくれ、悪ければ皮がずるりと剥けてしまう状態だ。
「ごめん、気づかなかった」
「ううん」
クロノはスマートフォンをポケットにしまい、トキネに背を向け地面に膝をついた。
トキネが文句一つ言わないことで、クロノは却って痛ましさと責任を感じている。逃げるように祭り会場を後にしたのも、元はといえばクロノが原因だった。小学生の頃の同級生に会って、トキネといることをからかわれたのだ。
『久しぶりじゃねーか。いやもしかして教室にいたか? ゴーストだもんな!』
『それカノジョ? うわ妹か! 中学になってもまだ妹に面倒見られてんのかよ!』
越境して隣町の中学校に入り、部活の仲間に出会い、人と話すのが平気になったつもりでも、過去を体が覚えている。言い返そうとするトキネを分別顔でなだめて、一通り巡ったからもういいだろうと帰路につく。諍いを起こすのはまずい。そう思って努めて冷静にしていたはずが、声が追いかけてくるような気がして、知らず早足になっていた。
「おぶされるか?」
聞いてはみたものの、クロノは他に手段がなかった。抱っこして家まで帰るにはトキネは大きいし、靴を交換してやろうにも、クロノのサンダルはトキネの足には合わない。両親はトキネの引率をクロノに託したくらいだから、まだ帰っていないだろう。この時間に帰宅できるのならば、トキネの友だちが熱を出して祭りに行く予定がキャンセルになったときに、クロノになど頼まないはずだ。
だから、クロノはトキネが背中におぶさってきたときはホッとした。
小さい頃と変わらない体温。記憶よりも重いが、背負えない重さではない。夜になっても下がらない気温の中、人一人くっついているだけで汗が吹き出すようだったが、気にしている場合ではなかった。トキネだって同じだけ暑いのだ。
「よっ」
掛け声を掛けて、クロノは立ち上がった。コンッと下駄が落ちる音がした。
クロノはトキネを背負ったまま前屈して、下駄を拾った。
「持ってろ」
「うん」
胸の前にあるトキネの手に下駄を持たせて、クロノはもう一度体を起こす。トキネの下着が見えていないか気になったが、そういうのはトキネが自分でちゃんとするだろう、と思い直して前を見る。トキネが肩口に頭をもたせてきて、髪が首筋をくすぐった。
「……短針町の夏祭りさ、来週なんだって。剣道部で行くんだけど、トキネも来るか?」
「いいの!?」
「ああ」
「行きたい! でも先に他の人に聞いてね。わたし、今日だけでも十分だよ」
「みんないいって言うと思うけど、分かった、聞いておく」
「みんな何着るの?」
「さあ……?」
「聞いた方がいいよ。今日わたしだけ浴衣で寂しかったもん」
「レモンは浴衣かもしれないけど、シライ先輩とアカバはどうだろうな。服じゃないかな」
剣道着という意味では全員分の着物姿を見ているクロノだったが、二人が浴衣を着ているイメージが浮かばない。今日の祭りだって、すれ違う男はほとんどが洋服だった。
「レモンまで洋服だったらトキネが困るもんな」
「わたしのことはいいんだよ、お兄ちゃんのだよ」
「おれの服なんて何でもいいと思うけど……分かった、合わせて聞いておく」
「やった!」
クロノが答えると、トキネはうれしそうに足を前に出した。もっと小さい頃ならいざ知らず、今の背丈でやられると重心がぶれる。クロノは軽く「こら、危ないぞ」と言って、トキネを背負い直した。
- 投稿日:2024年6月2日
- 分かってるんです、こんな現実がないことは。