依存症
見た目だけで相手を選び、ホテルにしけこみセックスをする。
シライがしているのは有り体に言えばそういうことだ。人柄を見定めるなんて面倒なことはしない。嫌なことがあれば腕尽くで逃げ出せるという自負が、シライの行動を大胆にしている。時は二〇八七年、盛り場の治安は案外いい。
ジーンズにTシャツという特徴のなさすぎる服装に、どちらかと言えば女受けの方がよさそうな顔立ち。バーテンダーと話す言葉に感じたかすかな訛りから、シライは男が出張者か旅行者だと当たりをつけて声を掛けた。狭いコミュニティだ。複数回会っている相手もいるにはいるが、仕事が仕事だ、のめり込まないよう気をつけている。シライの持っている道徳観との齟齬を無視すれば、既婚者の方が丁度いいくらいだった。
返事は快諾。来たばかりの男が飲む一杯に付き合ってから店を出る。勝手の分かりきったホテルの部屋に入り、どちらからともなく距離を詰めたところで、シライは致命的な事実に気がついた。
男の香水が、ゴローがつけているものと同じだった。
「……悪い、なしにしてくれ。ここの支払い持つから」
ウッド系の甘さの奥底でスモーキーさが漂う、男性的な香りだ。どのブランドの何という物なのか知らないその香りを、シライはゴローの香りとして認識している。同じ部屋にいるくらいでは香らず、ごく近い距離ですれ違ったときや、予定にない手合わせが発生したときの記憶にあるだけだったが、シライの鼻の奥にはすっかりその香りが染み付いている。ゴローのことを考えながら自慰をするときに、幻覚のように嗅いでしまう程度には。
「どうしてか聞いてもいいかな?」
話を突然反故にされたことを怒るでもなく、男はシライを見下ろしながら尋ねた。
一八〇センチという長身を有するシライにとって、自分より背の高い男は貴重だ。惜しいのは惜しいが、なけなしの罪悪感が理性に働きかけてくる。身長なり、肩幅なり、頭の形なり、声質なり、ゴローに近い男を探して抱かれているくせに、大した矛盾だった。
「香水が……」
「香水?」
「知り合いと同じで、気まずい」
関係を築くために話すのは苦手だった。始まってしまえばオリジナリティのある言葉を交わす必要がないことが、この遊びのよさでもある。他の言い方を思いつく気がせず馬鹿正直に答えたシライは、納得以前に、意外な答えを聞いたという顔をしている男を見る。この、見上げるという行為が好きだった。
「嫌いな人?」
「いや」
「そうか」
男が一歩、距離を詰める。害意を感じられず、シライは動向を注視するだけに留める。シライは状況を打破する手段として暴力を選びがちだったが、暴力を振るうこと自体が好きなわけではない。話し合いだけでお開きにして、円満に部屋を出られるのならそれが一番いい。
男はシライの肩に手を置いた。シライが嫌がる素振りを見せないことを確認してから、シライに向かって屈み込む。ふわりと香水の匂いが強まり、身を引こうとしたシライの肩を男が掴む。
「ここ、嗅いでみて。首筋につけてるから」
香りが近くなった動揺のせいか、シライは言われるままに息を吸い込んだ。
勘違いでも何でもなく、ゴローの香水と同じ香りだった。頭がくらりとした絶妙なタイミングで抱き寄せられて、シライは男の服を掴む。ワイシャツの生地にはない厚みのある手触りにほっとする。まだ抱き返さないだけの理性が残っている。だが、呼吸しているだけでも香りが脳を浸してくるのだ。ゴローの香りを嗅ぎたいという願望が叶うまたとない機会で、理性が溶け落ちるのは時間の問題で、今すぐ突っぱねるべきだとシライの頭の中で警鐘が鳴る。
「まだ帰りたい?」
少し覆いかぶさられる程度の身長差。ゴローとは体の厚みが違う。声も違う。シライは背中を撫で下ろす男の手に尻を掴まれて、その先に続くことを想像しようとする自分にブレーキをかける。左手を後ろに回して、男の手を外させようとして、意識がおろそかになった首筋を軽く吸われる。首をガラ空きにするなんて、普段なら絶対にしないことだ。急所を押さえられていることが、脅威でも何でもない相手に感じないはずの危機感にすり替わって、心臓が高鳴った。
「……帰らない。したい」
シライは男の背中に腕を回した。手のひらに触れる筋肉はゴローよりもずっと薄く、この男をこのまま床に叩きつけようと思えば簡単にできてしまうんだろう、とシライは残念に思った。
◇
「シライ、少しいいか」
廊下でゴローに呼び止められたシライは、おざなりな挨拶をした口を閉じた。用件を言わないまま顎をしゃくられ、渋々ゴローの後ろに従う。
シライはゴローの部屋にまで呼ばれて絞られそうな案件を、頭の中でリストアップした。今さら言わないだろうというものが、別件をきっかけに芋づる式に出てくることもあるから油断できない。政府主導の報告会なんかがいい例だ。
部屋に戻ったゴローが椅子に座るのを見届けて、しばらくの間が空く。
シライは小首を傾げた。いつもより切り出すタイミングが遅い。ゴローが威厳を保つためにあえて発言や行動を遅くしていることは知っているが、必要と分かっていることでつまらない逡巡をする男ではない。
「隊長?」
シライが呼びかけると、ゴローは一度瞑目してからシライを見た。
「……リトライアイが使えなくなってもなお、おまえは優秀な巻戻士であり、時空警察にとって貴重な戦力だ。おれが今からする話は、おまえの返答を求めるものだ。その答えがどんなものであれ、おまえの組織における立場を不利にすることはないと誓おう」
「ご大層な宣誓をどうも。ミッションが受けられなくても、おれにできるタスクがあるからクビにならねぇ。まさに芸は身を助くだ」
シライのギャグはいつも通りに流された。ゴローは白けることすらしない。
「……先週の非番の夜に会っていた男と別れてほしい。できるか?」
「……!」
シライは瞠目した。
思ってもみない訓戒だった。バレていないと思っていたし、バレたとしても何か言ってくるとは思わなかった。成人同士、金銭のやり取りはない。多少道徳規範に反する面はあれども、シライは独身だ。頭が沸くようなことをしていても、機密に関わることを漏らすヘマをしない――というのは主観だが、そう思わせられる程度の信頼は、過去の実績から得られているはずだ。
「部下の性生活も管掌するのは干渉しすぎじゃないか?」
「もっともな意見だ。第一線を退いたおまえを、未だこの時代に拘束していることも申し訳なく思っている。だがここはおまえの出身時代ではない。時空警察に所属する者として――」
「隊長、やめてくれ。十分だ。おれが軽率だった。別れる」
別れるも何も付き合っていないことを伏せて、シライは承諾した。件の男は出張ではなく出向で、関係が長くなっていた自覚はある。ゴローの表情に何か変化が見られるかと期待したが、残念ながらゴローは眉一つ動かさない。切り出す前の躊躇いが思わせぶりすぎる、とシライは心の中で悪態をつく。
シライは今回の指示について、ゴローが本当に時空法絡みで言ってきたとは思っていない。誰かに聞いたか、ゴローが見たか、とにかく素行が目に余るということだろう。シライが初めて行きずりの男と関係を持ったのは、リトライアイを壊すよりも前だ。バレないようにやっていたくせに、いざバレるともっと早く気づいてほしかったと思う。ゴローに関わると辻褄が合わないことばかり考える。気晴らしの手段はたった今封じられた。シライにはできることが何もない。
「話はそれだけだ。呼び出してすまなかった」
「おれのほうこそ面倒かけて悪かった」
当てこすりがてらに聞けることはいくつかあったが、どれもシライが本当に聞きたいことではない。シライは自らの望む答えがゴローの口から出ることを恐れてすらいた。ゴローはそんな男ではないというのはシライが一方的に押し付けているイメージだったが、思っている期間が長すぎて、もはや信仰に近い。
シライは踵を返してゴローの部屋を出た。
予想通り、ゴローはシライを呼び止めなかった。
◇
浮気するなと言われたとすり替えればいい。
そう思いついたシライの禁欲生活は九日で限界が来た。
自慰で済むのならはじめから男漁りなどしていない。乾きを癒すには道具ではなく生身の人間が必要だ。
シライはペーパータオルで拭いたディルドにエタノールスプレーをまぶし、洗面所のオープンラックに置いた。地下にある寮に風通しのいい場所など皆無。開けたところに置いた方が乾きやすい。どうせ部屋には誰も来ない。
スニーカーを履いて部屋を出たシライが、エレベーターの中で考えるのはゴローのことだ。頼めばヤれる気がするというのは前から何度も考えていたことで、その度にシライはその案を却下してきた。一回で満足できる気がしない。あのガタイ、あの強さの男のチンポなんかハメられたら頭がおかしくなる。継続的な関係なんか持ててみろ、絶対に仕事どころじゃなくなる。隊長のチンポケースに配置転換だ。
「お、隊長、おはよ」
エレベーターホールを出たところでゴローの背中を見つけて、シライの口からは敬意のかけらもない挨拶が滑り出る。肩越しに振り返ったゴローが返す低い「おはよう」の声に満足して、シライはエレベーターを乗り換えるために、ゴローの後ろについて移動する。目的地は多目的室、仕事は新しいトレーニングメニューの確認だ。ゴローの行き先は司令室だから、途中までは一緒だろう。
シライが新人だった頃は、ゴローがトレーニングメニューを組んでいた。あまりのキツさに当時のシライは「隊長は臨死体験するごとに強くなると思ってんじゃねーか」と疑っていたが、今の隊員にとっては残念なことに、シライは実際にそれで強くなってしまった。おかげでシライが課すのも、死なないギリギリの分量のトレーニングだ。今のシライはトレーニングの負荷を上げたくらいでは死ぬような思いはしないから、死にそうになっている隊員を見ると少し羨ましくなる。シライの荒淫の原因は、リトライアイの破損により、単独で任務に出られなくなったことにもある。
「今日は元気そうだな」
「あ?」
「ここ数日、暗い顔をしていたから心配していた」
シライの脳の処理速度ががくんと落ちる。隊長が心配? おれを? ダイビングプールに蓋をして、心肺機能の限界を試させた男が?
「なんだ、意外か?」
「いや……」
ゴローが片頬を歪めるようにして笑ったの見て、シライは目をそらした。あんたは原因を知っているだろう、という言葉が喉元まで出かかっている。
チン、とエレベーターの到着を告げるレトロな音がした。見せかけの上物の外観といい、屋上にある時計のデザインといい、本部は多分に懐古趣味なところがある。タイムマシンなんていう最先端の技術で、過去ばかり見ているせいだろうか。
「シライ」
「ああ」
ゴローに呼ばれたシライは、上司にエレベーターのボタンを押させることを失態とは思わないまでも、慌ててカゴに乗り込んだ。シライが目的階を言う前に、ゴローが多目的室がある階のボタンを押す。司令室がある二階上のボタンには、既にランプが灯っている。
つけたばかりだからだろう。狭い空間で、いつもよりはっきりとゴローの香水の匂いを感じる。二人きりという状況を意識して、欲求不満の頭の中がざわめく。エレベーターの中で過ごす時間はただ待つには長く、話すには短い。仮に故障でエレベーターが止まっても、ゴローがリトライして終わりだ。脱出方法だっていくらでもある。シライは息をしないように意識した。何の準備もしていなくとも、この程度の時間ならば苦にならない。
「じゃ、お先」
「待て」
エレベーターのドアが開いて、降りようとしたシライの腕をゴローが掴んだ。偶然誰もいないエレベーターホール。引き戻されるカゴの中。機械は設定された時間通りにドアを閉め、再び上昇を始める。シライの腕は依然としてゴローの手の中だ。上着とパーカーの厚みの上、体温は感じない。
「どうした、隊長?」
シライはゴローを振り返った。顔に出ないとよく言われる。そうであることを祈る。自分がどんな顔をしているのか分からない。
シライをして見上げなければならない長身。顰めてばかりの顔。どんなに疲れていても緩むことのないネクタイ。ぶちのめすときは容赦ないくせに、引き起こすときの手は優しい。今だってそうだ。抱いてくれと頼めば抱いてくれるだろう。その気がなかろうが勃起させるくらい訳ない。忙しい男のための時短コース。
「外部のカウンセリングの案内だ。必要なければ捨てろ。報告は不要だ」
ずいと差し出された封筒は、二重封筒なのか中身が透けない。シライが受け取ったタイミングでエレベーターが停止し、ドアが開く。出て行きざまにゴローが二階下のボタンを押し直し、外に出てから立ちすくむシライを見る。二回連続でエレベーターホールに誰もいないのは、どういう巡り合わせなのか。
「……サンキュー、隊長」
シライは封筒を振りながら言った。上手く笑えたはずだった。
顔に出さない手本のような男は、今日も表情を変えなかった。
- 投稿日:2024年6月10日
- 思いついた段階ではゴローが抱く展開があったのに、いざ書いてみるとゴローの人間性がまともだったためにこんな……