大人なら何してもいいだろ
「おいシライ、こんな夜中に何してる?」
休憩室のソファに座っていたシライは、革靴の足音がすぐ近くで止まってからようやく顔を上げた。見上げた先には、足音から予想した通りの人物、ゴローが立っている。
「……徘徊と俳諧をかけてるか?」
「かけていないし季語もない」
「川柳か。専有してるんじゃないから見逃してほしい」
ゴローの視線を追ったシライは、自分の左側に置いた刀に目を落とした。竹刀よりもずっと重いそれを手にしたとき、シライは初めて自分の居場所が定まった気がした。今はもう重さも感じない。
「休憩スペースで武装は物騒だってのは分かる。でも持ってねえと落ち着かねえんだ」
廊下に灯る常夜灯のほか、ドリンクサーバーがわずかな光源となっている休憩室には、シライの他には誰もいない。シライは飲み物も飲まず、スマートフォンも持たず、本も読まずテレビもつけず、ただぼんやりと虚空を見ていたから、ゴローが不審に思うのもやむなしだ。窓でもあればごまかせたのに、とシライは地下にある本部では決して叶わないことを考える。
ソファの座面が揺れるのに釣られて、シライは隣に座ったゴローを見た。いつも寝不足のような顔をしているシライとは別種の険しい顔。たっぷり寝たという顔ではないながら、不思議と寝不足には見えない。
巻戻士にも朝昼晩という観念はある。ゴローの言った「こんな時間」というのは誰にでも当てはまることで、隊長はいつ寝ているのだろう、とシライはぼんやり考える。確か今日の昼過ぎに、転送室から出てくるところを見た。
「刀を持ち歩くことは構わない。拳闘に長けた者がいたとして、腕を置いていけとは言わないだろう」
「その理屈は無理があるだろ」
シライは笑った。たとえシライが座っているのがゴローの目が隠れていない側であったとしても、ゴローの感情を読むことは不可能だろうが、今の発言が冗談であることは分かった。
自分より強い者が存在する安心感と、いつか負かしてやるという対抗心。相反する二つが同居している心は、天秤が釣り合うようにバランスが取れている。
シライはゴローに負けるまで対抗心など抱いたことがなかったから、模擬戦でゴローに打ち負かされた後に湧いた感情を、初めは理解できなかった。得意の得物を許された状態でシライが一本も取れない理由を、ゴローは技術ではなく経験の差だと言うが、シライは自分と同い年のゴローと戦って勝てるビジョンも持てない。
「……なぁ隊長、個人的な頼みがある」
「なんだ?」
「おれが寝るまでそばにいてくれねえか。最近あまり寝れてねえんだ」
目を丸くしたゴローを見て、隊長もそういう顔ができるんだな、とシライはもう一度笑った。
ゴローが黙っているせいで、シライ一人のときと同じ静けさが戻る。
答えを急かすものではない。どうせ眠れないのだ。
シライはたっぷり空いた間を埋めることなく、ゴローの顔を眺める。
「……おれは正直おまえのことをガキだと思っているが、そこまで子どもじゃないだろう」
「つれねぇの。ただいるだけでいいってのに」
ゴローが断ることに不思議はない。シライは先に言わなかった自分の願望をさりげなく付け足した。
「……眠れない原因に心当たりはないのか?」
「隊長の方が詳しいんじゃねえか? クロホンが送ってるデータあるだろ?」
ゴローの視線を受け止めて、シライは肩を竦めた。何も責めているわけじゃないし、良い悪いの話もしていない。ゴローにそんな顔をされるいわれはなかった。
「最初に同意書くれたろ。ただでさえ細けえのに、クロホンが読み合わせするって言うから余計に時間がかかっちまった。巻戻士になるって決めたんだ。答えは『同意する』以外ないのにな」
「……おれは直接は確認しない。問題があった場合に担当部署から連絡がある」
「おれのことは?」
「まだだ」
「まだってなんだよ」
まるでいずれ報告があると言うような縁起でもない発言だ。シライがつっこみのつもりで言葉を繰り返すと、ゴローは不機嫌そうな顔で目をそらした。
「じゃあ問題なしってことか。ストレスって診断されるやつだな。……知ってるか隊長、ストレスはハグで軽減できるんだぜ」
「殺風景な部屋だな」
「隊長の部屋は花でも飾ってんのか?」
「家具の話だ。お前がここに来てから一年は経つだろう。ここまで何もないとは思わなかった」
シライは与えられた部屋を入居した当初の状態で維持している。暮らせる最低限のものが用意されていたために、改めて増やす必要がなかったのだ。任務や訓練に際して他の巻戻士との会話はあったが、私室に出入りするほどの交流はなく、シライの目には自分の部屋の特異性が分からない。ゴローが言うならそうかと思うものの、具体的な改善案は浮かばなかった。
「座布団一つなくて悪ぃな、ベッドにでも座ってくれ」
「……いや」
「なんだよ、隊長に立ってられたらおれが寝づらいだろ。心配しなくても寝相は悪くねえ。朝までいい子にしてられる」
「……」
盛大な溜め息をひとつ。ゴローはさも仕方がないというように首を振り、シライのベッドに向かった。
革靴ばかり見ているからか、靴下だけの足元というのはどうにも間が抜けて見える。ベッドに腰掛けるゴローを見ながら、シライは刀を腰から外してヘッドボードの上に置いた。刀を抱いて寝るまではしないが、得物はすぐに手が届く場所にある方が安心できる。
「待て、着替えるなら出る」
シライがパーカーの裾に手を掛けたとき、ゴローから制止の声が掛かった。
ごろ寝するくらいならパーカーのままでもよかったが、起床予定は五時間後だ。当然パーカーを脱ぐ気でいたシライは、ゴローのストップに怪訝な顔をして、脱ぎかけた姿勢のままゴローを振り返った。
「男同士なんだからいいだろ。下は脱がねえよ」
「おれはおまえの上司だ。本来なら部下の私室に上がり込むこと自体、褒められた行為じゃない」
「隊長でも褒められたり叱られたりってあんのか」
「もののたとえだ」
「分かってるよ」
シライはパーカーの裾から手を離した。深い意味もなく口にしたことを、いちいち拾って返してもらえるのがありがたい。こういうのを安心すると言うのだろうか、と考えて浮ついているシライとは反対に、座ったばかりのところを立ち上がるゴローは疲れた顔をしている。
「着替えが終わったら呼べ」
「了解、隊長。出たり入ったり忙しないな。世話しないと寝ない部下で悪い」
帰ると言わないのはゴローの面倒見の良さゆえだ。シライはゴローの性質に付け込んだ自覚を持ちつつ、ドアが閉まるのを待った。
実のところ、シライはタンクトップで寝るつもりだった。だが着替えだと思ったゴローを出て行かせた都合、着替えないわけにはいかない。たった三分で済むハグよりも、往復の移動も含めて多分に時間を取られる方を選んだゴローの誠実に、応えてやりたい気になっていた。
「さぁて……何かあったかな……」
今度こそパーカーを脱いだシライは、体裁を取り繕うために服を探し始めた。
「スムーズな入眠にはパジャマを着ることもいいらしい」
「パジャマって着たことねえ」
「検討してみろ」
シライの寝間着は結局、トレーニングウェアを兼ねたTシャツになった。ゴローを呼び戻してからベッドに入ったシライは、横向きに寝転がり、ベッドの端に腰掛けたゴローの横顔を眺めている。
私用の端末を持っていないということはないだろうが、ゴローがスマートフォンを触っているところは見たことがない。今だってゴローは何もない空間を見ていて、状況としては休憩室で発見されたときのシライといい勝負だ。
シライは待っていてもそれ以上ゴローが話さないことを悟って、あくびがてらに深呼吸をした。いつになく瞼が重かった。
安眠のためにゴローにわざわざ部屋に来てもらったのだから、そのまま目を閉じてしまえばいい。分かっていても寝てしまうのが惜しい気がして、シライはゴローを視界に収めたまま瞬きを繰り返す。シライの方を見ないゴローには、シライが起きていようとしていることがバレていないはずだ。
「……隊長」
シライは手を伸ばして布団を叩いた。頭を基準にして、シライとゴローの中間地点。何もない。清潔なシーツだけがある。
「なぁ、隊長。手ぇ握ってくれよ。目ぇつぶっちまったら、いるかいないか分からなくなるだろ」
「おまえは子どもじゃないだろう」
ゴローは前にも言った言葉を繰り返した。
ゴローが部屋を出ていくときのためにフットライトは残してあるが、暗さに慣れきっていない目ではゴローの表情までは見えない。そのくせ困惑していることが、顔が見えていたときよりも伝わってくる。シライは手を布団の外に残したまま目を閉じた。
- 投稿日:2024年6月13日
- レモンにもまだ会っていない時期という設定です。ふわふわに書きすぎたかもしれないけど眠いからってことで何とか許されたい。