過ぎた話
「洒落た部屋じゃねーか」
そう言いながらゴローが座るベッドの端に腰を下ろしたシライは、片腕で抱え持ってきたクッションをゴローの隣に投げ置いた。深いグリーンのコーデュロイ。カバーの表面が不均等に擦り減ったそのクッションに、古い記憶が揺り動かされる。
「……鍵をどうした」
まだ表面に触れただけ。合わせ方が甘かったカーテンから漏れる日差しのようなものだ。寝返りを打って視界から追いやれば、無視して眠ってしまえる程度の刺激で、揺れを鎮めるための重石は山ほどあった。
ゴローは斜めになって着地したクッションを整えることも退けることもせず、あえて本のページをめくった。さらりとして均質な工業製品の手触り。質の悪い紙など、ゴローが生まれたときにはもう生産されなくなっていた。
「先週――あー、隊長にとっちゃ三十年前か。権限書き換えたまんま戻してねえ。本部の鍵は全部おれの目ん玉ひとつで開く」
「……」
「冗談だ、そんな怖い顔すんなよ。クロホンにセキュリティチェックだっつって解錠方法探させた。持つべきものは頼りになる相棒だ。おれは足を棒にすることなく部屋でぼーっと待ってりゃいい」
「……シライ」
「なんだよ隊長?」
体を傾けてゴローの顔を覗き込んだシライは、横目にシライを睨むゴローの胸中を読んだように、ニッと笑った。
「名前を呼ばれただけじゃ分かんねーこともある。自分以外と話すのが久しぶりで忘れちまったか?」
シライは自分が置いたクッションの位置を正すと、勝手に掛け布団をはぐって潜り込んだ。寝支度を整えておきながら眠気など微塵も感じさせない金眼が、観察するでも睨めつけるでもなく、一緒に入った飯屋で注文が決まったかと尋ねるような調子で向けられる。
ゴローはシライの視線を受け流し、自分の手元に視線を戻した。
シライの姿はゴローの記憶にあるものと変わらない。当たり前だ。シライ自身の時間はあれから一週間も経っていないのだ。
頭の中に描かれるシライが寝そべる向こう側、部屋の中の景色は、テクノロジー・オブ・ジ・アースに向かう前に使っていたゴローの私室だ。少し視線を上げて壁際に目をやれば、本棚に並ぶ本の背を一つ一つ読み上げられそうな気がする。だが、実際に部屋にあるのはあの日と全く違う蔵書で、本棚の位置すらも同一ではない。
ゴローは本のページをめくる。シライが潜り込んだせいか、馴染みきっていたせいで気にならなかった布団の中の空気の温度が気に掛かる。少し意識を脇にやれば、布団に入って以降は身動ぎもしないシライの視線を頬に感じた。
シライが考えている通り、ゴローが身を隠していたこの部屋には記録を残すような機材が何もない。創設から関わったおかげで電源すらも本部とは別系統だ。いくらシライがAIに備えられた倫理を掻い潜って指示を与えようと、クロホンに隠し部屋の位置を割り出せるはずがない。解錠など言わずもがなだ。
「隊長はいつ元の部屋に戻ってくるんだ? 引っ越すときは声掛けてくれよ。力仕事するには手が足りねえだろ?」
ゴローから何の情報も得られないと悟ったか、聞きたいことがあって訪ねてきたのだろうに、シライは露骨に別の話題を振ってきた。当てこすりを挟んでくるあたり老いたゴローの存在に思うところがあるらしいが、不服が分かりやすすぎて、真意は別のところにあるようにも思えてくる。
「……まだしばらくはこちらの部屋で過ごす」
「ふーん。じゃ、あっちの部屋は当分そのままか」
「片付けたいならおまえに任せてもいい。見られたくないものもあるだろう」
「他人事みてぇに言うんだな」
内容の割にやけに乾いた声。ゴローは溜め息をついて、片手でも本が読めるよう取り付けた書見台のアームを脇に押しやった。考えすぎてしまうのは3時の腹を探り続けた弊害だ。アームが独りでに折り畳まれていく様子を興味深そうに眺めるシライが、この場をどうしたいのか。不確定な要素ばかりが転がっていたが、読書を続けさせる気がないことだけは確かだ。
本を閉じたゴローがシライを見下ろすと、シライはクッションにすっかり頬を埋めていた。昼間に見たままのパーカー姿。ジャケットすら脱いでいない。眠るつもりでいながら、寝るのに不適な服装で部屋を訪ねてくる理由を、ゴローは尋ねたことがない。訊いてしまうと、勝手だと言えなくなる。
「三十年も前のことだ。おれよりもシライ、おまえの方が、あの部屋に愛着があるだろう」
古い記憶を取り出すのは本を読むのと同じだ。ただの記録で、感情までは載っていない。
「全部捨てちまっても構わねぇって?」
「ああ。もう何があったかも覚えていない」
「巻戻士にあるまじき発言だな」
シライはくつくつと笑った。
「本当は全部覚えてんだろ。らしくねぇ嘘までつかれると、隠してぇことでもあんのか勘ぐっちまう。かくしてゴローはおじいさんになり、改心したスパイは仲間に加わりました――めでたすぎる幕引きの後に、ポストクレジットがあるんじゃねーかってな」
シライに嘘の見抜き方を教えたのはゴローだ。思春期にはありがちな大人への不信感を表に出し、斜に構えた物言いをしておきながら、人は善意で動くと信じて疑わなかった少年は、青年と呼べるようになった今も清と濁を分けようとする。
「……自分の部屋に戻れ、シライ」
ゴローは閉じた本をサイドテーブルに置いた。
嘘の巧拙とは別に、シライが平気なふりが上手いことなど、今このときに思い出すべきではなかった。
- 投稿日:2025年5月2日
- 旅行中のためX(Twitter)に画像で投稿
- 更新日:2025年5月5日
- サイトに収録。恋愛感情はさておき、シライはゴローの隣に並べる存在になりたいけど、ゴローはシライを巻戻士の一人として見ている……という感じの関係が、ハワイを挟んだせいでより強固になってほしいなぁと思います。