隊則に手を置いて

「なんでだよ、書くのはここだろ」
 ゴローはシライがトントンと叩いた箇所を凝視した。
 幾度となく部下の婚姻届の証人欄に名前を書いてきたゴローだ。今さら記入箇所を間違うはずがなかった。シライの指が示しているのは配偶者となる者を記す欄で、全く同じ枠組みの隣の欄には、シライの名前が入っている。
「大体おれが誰と結婚するのか分かんねえ状態で証人になるって、一体何を保証する気なんだよ。ついにボケたか?」
 シライに本気で心配しているという顔をされて、ゴローはシライをじとりと見た。ゴローの意を汲んだシライがニヤリと笑うのを見てから、ゴローは手にしていたペンを婚姻届の脇に置く。
「面倒を買いたいと言うなら他に制度がある。成年後見制度か、どうしてもと言うなら養子縁組か、それか――」
「結婚でいいだろ」
「よくないから言っている」
「先に死ぬからか? 隊長だぜ、ある程度いくとバツイチってことにした方が面倒がないって言ったの」
 ゴローの眉間に力が入る。言ったような気がする。が、シライにとってはここ数か月の話でもゴローにとっては三十年以上前の話で、細かな雑談までは覚えていないというのが実情だ。
 考え込むゴローの顔を眺めていたしばらくシライは、体を斜にしてゴローの机に腰掛けた。ゴンッと幕板に靴が当たる音。机に座るのは何度注意しても直らなかった癖で、今となっては懐かしさを感じる。
 隠し部屋で暮らした十五年間、情報は手に入っていたが、通算三十年ぶりに肉眼で見る巻戻士たちは誰も彼もが若さにあふれ、愛らしく見える。どこかで線引きをしなければずるずると際限なくシライを甘やかしてしまう予感がして、ゴローは気を引き締めた。
「シライ」
 ゴローが声に苛立ちを乗せてもシライはどこ吹く風で、机に片手をついて身を乗り出す。そしてゴローの白くなった顎髭をやけに楽しそうに触ってくるものだから、最前固めたばかりのゴローの決意は早くもぐらついた。
「本当にジジイだな。流石隊長と言うべきか、隠しごとのデカさがおれの比じゃねえ。たまったもんじゃねえよ、隠しだけに。……これが最後だろうな?」
「さあな」
 浮かべた笑顔とは裏腹に、シライの瞳に宿る光は剣呑だ。
 短くも浅くもない付き合いでありながら、人一人を隠し続けたのだ。隠した側のゴローとしても、シライの憤りは理解できる。自分が若い頃に老人の自分から知らされていなかったこと――老人となった理由とか、何の任務をきっかけに片腕を失ったのかとか――はあったが、その上でゴロー自身も若い自分に伝えないことを選んだのだから、シライの憤慨はやはりゴローの責任だった。
「いい加減にしろ」
 ゴローはまだ髭を触っているシライの手を下げさせる。おもちゃを取り上げられた子供のような顔をしたシライは、それでも机からは降りようとしない。机に置いた婚姻届に目を落とし、つまらなさそうに口を尖らせる。
「おれと結婚するのがそんなに嫌かよ」
「目的を果たすのに適切な選択とは言えん。それにおれはおまえに面倒をかけるつもりはない」
「一方的に面倒だけ見てくれるってか。3時スリーオクロックと十五年間も暮らしたことといい、隊長は物好きだな」
「何とでも言え」
 電子申請が可能なものをわざわざ紙で持ってくるあたり、反応を見たいというふざけた思惑が透けて見えている。ゴローが未記入の婚姻届をシライに向かって突き返すと、シライは渋々といった体で受け取った。
 シライの喜怒哀楽は分かりやすい。思考と感情を切り離しているから無表情に見えることが多いだけで、雑談するときは特にころころと表情が変わる。シライにその自覚がなく、自分を感情豊かだとも思っていないせいで、表情を隠そうとすること自体が稀だった。
 不満をぶつけられるのはいい。
 だが、寂しいと顔に書かれると困る。
 ゴローは未完成の婚姻届を見つめるシライから目を逸らした。
「隊長はこの先も秘密主義を続けんのか?」
「……」
「そんだけジジイになってもここに座ってるってことは、死ぬまで巻戻士でいるつもりなんだろ?」
「……それがおれの役割だ」
「おれもその予定。ご存じの通り巻き戻しリトライはできねえけど、それでもあんたはおれを巻戻士だって言ってくれるだろ。……おれは辞めねえよ、何があっても。病めるときも健やかなときもな」
 ゴローがシライの表情を確かめたくなったタイミングで、シライはひょいと机から降りた。振り返り、ニッと歯を見せて笑う。
「あんたの人生をくれよ。老い先短い端っこの、死ぬ直前のとこでいいからさ。見送ってばっかりじゃねーか」
 三年前、巻戻士本部はクロックハンズの襲撃を受けた。隠し部屋に身を潜めるゴローは経験から襲撃があることを知っていたが、若いゴローにとっては寝耳に水。シライがクロノたちに救われた過去を明かしたのは襲撃を返り討ちにした後で、ゴローが知る限り唯一の、巻戻士に関わるシライの隠しごとだった。
 シライの隠しごとによって傷ついた巻戻士はいない。
 だが、ゴローが情報を秘していたことで3時スリーオクロックが関わる任務に派遣され、心を病んで辞職した巻戻士の人数は324人から変わっていない。
 心が壊される影響は、巻戻士を続けられなくなるだけではない。彼らの人生そのものに暗い影を落としている。
 ゴローはぐっと拳を握った。
 感情が顔に出ないことで怖がられることは多かったが、立場上有利に働くことの方が多かった。培ってきた感情を隠す術は、自分相手にすら有効だった。
「……老い先短いは余計だ」
 シライの表情は分かりやすい。
 ゴローの意図が伝わったことが、嫌と言うほど分かる顔だった。

投稿日:2024年10月13日
恋じゃないけど愛はあるっていうのもいいと思うんですよね。