誘惑のお作法
最近気付いたことがある。集中力がないのだ。
集中している状態は「集中してしまっている」状態で、考えてみれば遙か昔の学生時代、授業中はいつだってぼんやりしていた。教師に当てられたときは聞き流していた授業内容の記憶を手繰って拾って回答する、そういうことをしていたから、授業に身が入っていないことは表沙汰にならず、気付くのが今になってしまった。
眠気もなく明瞭な視界の中央、今やタブレットはただの板と化していた。調査はクロホンに任せられても、シライは人間だから頭に直接データを流し込むなんて真似はできない。だから結局はクロホンのまとめを聞くか読むかしなければならないが、集中力がないのだ。タブレットに送られたテキストの羅列より、視界の端で奇妙な動きを見せているクロノの方に興味を引かれるのは当然だった。
「クロノおまえ、さっきから何してんだ?」
シライの部屋の床の上。ストリートパフォーマーのようにポーズを変え続けていたクロノの方を、シライはついに見た。
ストレッチのできそこないのような、ベッドの下に入ってしまったボールを犬が追うのに似ているような。クロノが取っていた意図の読めない奇っ怪なポーズは、交際中であるという事実を差し引いても、シライに仕事のことを忘れさせるには十分興味深いものだった。
「おじさんを誘う練習だ」
「それが……?」
「女豹のポーズだ。知らないのか?」
「メヒョウ……」
語彙にない単語だった。流行りのダンス、最近の出土品、新種の生物、スポーツ選手。サッカーのワールドカップをやったのは二年前で、次の開催までまだあと二年ある。クロノはシライと同じくらい世情に疎いはずで、元ネタが今年とは限らない。
「雌の豹だ」
らしくもなく理解に時間がかかっているシライに、クロノは端的に答えを明かした。
「……なるほどな、意表を突かれたぜ。豹だけに」
「仕事の邪魔だった?」
「いいや。休憩しようとしてたとこ」
ポーズを取るのをやめて座ったクロノに対し、シライは首を振った。気になったのは気になったが、好きにしていろと言ったのはシライの方だ。集中してしまいさえすれば横で道路工事をしていようが気にならないから、業務の中断はクロノではなくシライの責任だ。
「その雌豹のポーズってのはどういうもんなんだ?」
「誘う」という言葉からかろうじて気を引くことを目的としたポーズだと察せられるが、クロホンに詳細を尋ねようにも、クロホンはセキュリティ面のバージョンアップを兼ねたメンテナンス中だ。
「これ」
尋ねるシライに、クロノは自分のスマートフォンを差し出した。やたらとぴったりとした衣装を纏った女が、伸びをする猫よろしく腰を高々と上げた画像が表示されている。
何見てんだコイツ。誘うってそっちの誘うかよ。
シライは脊髄反射でツッコミを入れそうになったが、すんでのところで思いとどまる。巻戻士はどんな知識が役に立つか分からない。クロノみたいな発想力で総当たりしていくタイプなら特に。師匠としては弟子の自主性を尊重してやりたい。
「……こういうのは女の体に合わせてんだから、男のおまえがやるのは無理がある。似た形にはなってもモノにはならねぇ。現におれも、おまえが変なポーズ取ってるとしか思ってなかった」
「じゃあどうするんだ?」
「その前に質問。おまえこれどこで知った?」
「インターネット」
スマートフォンの画面を再確認したシライは、クロノの説明から「雌豹」と思っていたものが、正しくは「女豹」であることを知る。古びた印象の写真が載っていることからすると、インターネットよりも紙媒体、もしくはテレビが隆盛だった頃の発祥だろう。つまりこれは、手近な男にアピールするためのポーズではないということだ。
「それが間違いだ。おれはここにいるんだから、まず対象の気を引くっつー第一関門がねぇんだよ。そのままカモンで問題ねぇ」
誘う、誘うね……と、シライは頭の中で唱える。色仕掛けというのはシライの任務遂行スタイルの埒外にあったが、やってやれないことはない。シライはクロノの肩を軽く押して、抵抗なく仰向けに寝転がる成長途上の体を見下ろした。
二〇八七年現在も男の髪型として多数派に属する短髪は乱れることなく、小さな頃と印象の変わらないぐりぐりとした目がシライに向けられる。警戒心はゼロ。けれどもシライから片時も目を離さない。学習モードのクロノだった。
「フェイントをかけるのと同じだ。相手が入れそうに思う場所をあえて空けろ。ガラ空きにしすぎるとわざとらしいから、守れてないんじゃなくて、守りが手薄な風に見せる」
言いながら、シライはクロノの腕を掴んで動かした。片腕は頭の上、反対の手は腹の上。脚を掴んで膝を立てさせて、もう片方は自然に寝かせる。クロノに利き足というものはない。ないように、鍛えた。
覆い被さろうと思えばできるし、脚の間に入ろうと思えばできる。都合のいいことにクロノはあぐらをかくことが多く、プライベートなシーンで足を閉じて座るなんていう発想もないから、自然と脚は開きがちになる。いっそベッドに寝かせて昼寝に誘う風でもよかったか、と、色気よりもあどけなさの方を感じさせる様態を前に思案して、まあいいか、とシライはクロノの頭をわしわしと撫でた。大真面目にやっていることの馬鹿馬鹿しさに気付いたのだ。
「ま、こんなもんだな。あとは」
「……掛かったな、おじさん」
自分で研究しろ――と、言おうとしたところだった。クロノは自信ありげな笑みを浮かべると同時に、両脚でシライの腰を挟んだ。
「掛かったも何も、こんなの簡単に崩せる……」
拘束を解こうとしたシライは、今しがたクロノに言ったばかりのことを思い出す。相手を思い通りに動かす方法。締め上げることもできるのに、あえて緩い拘束に留めた理由。
シライはクロノの腿に掛けた己の手に意識をやる。脚の間から抜けるためには、まずクロノの脚を開かせなければならない。つまり寝転がっているクロノの脚を開かせるということだ。どういうポーズが出来上がるか、シライは状況把握に長けているために実際に目で見ているように理解できる。
恋人としての接触は、ハグとキスまで。
それがシライがクロノと交わした取り決めだった。
おれから触るのはセーフじゃないか? という悪魔じみた囁きをシライは否定している。たった今まで行われた接触は厳密に考えるとアウトだったが、まだ、任務のための指導という言い訳が通じる範囲だ。恐らく。たぶん。きっと。
先程までの行いを脳内再生し、じりじりと断罪の断崖に向けて進んでいったシライは、クロノが任務のためではなくシライを誘うためと言っていた決定的瞬間を思い出し、潔く崖から飛び降りた。有罪だ。
「……仕方ねぇ」
シライは大人しくクロノに覆いかぶさった。「うっ」とか「ぐっ」とか、そんな風なうめき声を下敷きに、クロノの背中に手を回し、ごろりと体を反転させる。
形勢逆転と言うべきか、見通しが甘いと釘を刺しておくべきか。シライが自分の上に寝そべらせたクロノを見ると、クロノはのそのそと体を起こす。傍目にまずい状態なのは変わらないが、押し倒しているよりかは幾分マシだ。
「蟹挟み破れたりだな。……で、こっからどうすんだ? まだ終わりじゃねぇだろ?」
少しくらい遊んでも罰は当たるまい。シライはのんびり鑑賞するつもりでクロノの膝を掴んでから、これもアウトだな、と罪科を数える。右目のタイムマシンが故障中でなくとも、やったという事実はチャラにはならない。
返事をしたかどうか。クロノが次の手を打つのは早かった。シライの腹に座ったまま、ずりずりと尻を後ろに下げていく。現場は見通しのいい直線道路。腹の次に何があるか。遮蔽物としてクロノがいても明らかだ。
意図に気づいたシライに、クロノはにっと笑いかける。
「いいのか、おじさん。おれは同じものが付いてるから、どうやったら気持ちいいのか分かるぞ」
「……なんつー脅し文句だよ。誘うんじゃねぇのかよ」
「こうなったら仕方がない」
「居直り強盗も真っ青の開き直りだな」
女豹はどうした、と思いながら、シライはクロノを落としてしまわないようゆっくり上体を起こした。言い放った台詞の悪辣さの割に協力的に体重を移動させるクロノを膝に乗せて、ハグの範囲に収まるよう慎重に腰に手を回す。
「おまえがオナニーするときどうやってんのか教えてくれるんだ?」
シライは傾いている天秤にもう一つ重石を載せる。
「恥ずかしくねぇの? 自分が普段どんな風にちんこ握って、どんなしごき方して気持ちよくなってんのか説明すんの」
「……おじさん、言い方がやらしいぞ」
「始めたのはおまえだろ」
シライはクロノを咎めがてら、クロノの額に自分の額を軽くぶつけた。くっつけたままにしておくと、クロノの前髪が額をくすぐった。
「……おじさんはした後のことを考えてるけど、おれはやらなかったことで後悔したくない」
口調は硬いのに、内容が甘すぎる。空手でいたなら拳の一つも握れたが、シライの手は今クロノの腰にあって、反応を見せれば場の膠着が崩れてしまう。キスがしやすすぎる距離は目の毒だ。
シライは額をくっつけたまま首を振った。さり、と前髪が音を立てる。
「感化されそうだけど看過できねぇ。クロノがこの先も隣にいてくれるなら、もっと早くやっときゃよかったって悔やむのも悪くねぇよ、おれは」
「……おれから触るのもだめ?」
「だめ。最初に約束したろ」
申し合わせたようにそれぞれに顔を上げて、眉を下げているクロノと目を合わせる。眼差しの光の弱さに迫りくる豹から逃げおおせたことを確信して、シライはほっと息をついた。
「想像すんのは止めやしねぇよ。おまえがおれとやりてーと思ってるの、おれは嬉しい」
「おじさんはおれとしたい?」
「さあな」
分かってるだろ、とは言えない。まあ、でも、伝わってるだろ、とシライはクロノの不満そうな顔を眺める。クロノには悪いが、シライは愛されている実感が得られることに深い充足を覚えている。
「……想像するのは自由なのか」
「そりゃあ観測できねぇもんをいかん即座にやめなさいとは言えねぇだろ」
師匠としての体面を保ったまま丸く収まった。仕事を中断するのに言った「休憩しようとしてたとこ」という嘘は今や本当になっていて、もう一度資料を通読する気になったシライは、クロノを部屋に入れた自らの英断を称えた。
「じゃあ、おれはおじさんとやりたいことを説明するから、想像してくれ」
そうきたか。シライは新たなステージが開幕してしまったことを察した。居住まいを正すクロノから体を離したくても、クロノの手はがっちりとシライの背中に回っている。逃げられないタイプの戦闘だ。
「準備はいいか? 目隠し将棋するみたいに、次に打つ手を言ってくれてもいいぞ」
「……勝ち負けの判定は」
シライが尋ねると、きらきらとクロノの目が輝いた。直感に突き動かされたシライは、クロノの口から答えが出る前に、ガッとクロノの肩を掴んで引き剥がした。
「しねぇ! 危ねぇ、今のも引っ掛けだろ!」
「バレたか」
さほど残念そうでもなく、クロノはシライの背中から手を離した。
- 投稿日:2025年6月7日