嫉妬と知って
「おじさんってモテるんだな」
言われたシライは目を瞬かせた。
先ほど道を教えた女性が、頭を下げて遠ざかっていく。その姿を見るともなしに見送って、シライはクロノの顔を振り向いた。
嫉妬で口を真一文字に引き結んででもいるのだろうか。思ったが、存外なにも気にしていないような顔をしている。
「あれ、ナンパって言うんだろ?」
「へぇ、よく知ってたな」
道を尋ねてきた女性は、あからさまにそれ以外の目的が透けて見えていた。スマートフォンを持っている妙齢の女性がわざわざ男二人組に声をかけるなど、本来は必要のないことだろう。
シライの視線を受け止めていたクロノが、気まずさもないままにふいと目を逸らし、小さく口を開いた。
「いいな、と思って」
「……は?」
「おれもされてみたいんだ、ナンパ」
「は、はぁ?」
こんなに堂々とした浮気宣言があるだろうか。
目を見開いたシライはその場でクロノを問い詰めようとしたが、シライの内心に気付かないのか、平気な顔で歩き出してしまったクロノに合わせて進む。道を教えるために立ち止まっていたのだから、用が済んだ今、クロノが先へ行こうとするのは当然のことだった。
シライは決して一瞬たりとも他人を見るなと言うほど偏狭ではない。むしろクロノの交友関係が広がることは好ましく思っている。限りなくいい雰囲気でシライと見つめ合っている最中、助けが必要そうな声や不審な物音を聞けばそちらに向かってしまうことも、まあ、許容範囲だ。クロノに言わせればシライもそういうところがあるらしく、お互い様と言うやつだ。
今日は久しぶりに真っ昼間の店が開いている時間帯で双方の休みが合ったから、買い物がてらシライの気に入りのカフェに行くつもりだった。シライが買い与えた服が入った紙袋を見下ろしたクロノが「おれ、部屋着じゃない私服着る機会ほとんどないぞ」と言うのに「デートのリクエストなんかいくらでも聞いてやるよ。クエスト気分でこなそうぜ」と返して、前々回に買ってやった服に身を包んだクロノを連れて街を道を歩く。実に軽快な滑り出しだった。
それなのに。
シライは自分の迂闊さを呪った。服なんか、通販でだって買えるのだ。二人で画面を覗き込み、決済はシライのカードで。届いたら見せてもらう約束をして、食堂併設のカフェで今季限定のパフェを食べる。あえて危険を冒さずとも、それでよかったはずだった。
「なんでナンパなんかされたいんだよ」
シライはともすれば不機嫌丸出しになりそうな声を、どうにか平常通りのトーンで絞り出す。思えばナンパだと分かっているのに相手をした自分にも非がある。見知らぬ人に対するクロノのまめまめしさを指摘した折に、おじさんだって、と言われてしまった通り、困りごとという体で接されると勝手に体が動くのだ。
「大丈夫、ちゃんと断る。おれはおじさんと付き合ってるから」
シライを見上げたクロノは神妙な面持ちで宣言したが、シライが聞きたいのはそんな言葉ではない。
ナンパされたいなどという、モテたいと同義の台詞に抱いた、クロノらしくないという感想と、クロノらしさという勝手なイメージを押しつけることへの抵抗。クロノはシライとの交際がナンパを断る理由になると理解しているから、「おれがいるだろ」と言うこともできない。
シライの顔が晴れない理由を、クロノは自分の反論に根拠が足りないからだと思ったらしい。まるで修行中にシミュレーションをするように黙り込む。
「……一緒にいたい人だと思われてるって、いいだろ」
横断歩道で立ち止まったとき、向けられたのは自信なさげな上目遣いだった。シライはクロノの幼少期を知っている。そのせいで、たった今出された歯切れの悪い答えはクロノの本心だという判断が、優勢になる。つまりクロノは誰とも知らない人間に好意を寄せられたいわけではなく、誰かに認められたいのだ。自分に都合のいい解釈をした自覚を持ちつつも、シライは気を取り直す。
「ナンパはそんな深く考えた理由でしねぇよ」
しかしだ。
信号が青に変わり、足と一緒にシライの頭も動き出す。
巻戻士本部の誰もがクロノに一目置いていて、クロノと組む度にシンパが増えている状態だ。少々鈍いところがあるとはいえ、クロノが人から寄せられる好意に気づいていないとも思えない。TOTEに潜入中のクロノを誰が助けに行くかという話で、その場にいた全員が名乗りを上げたが、今募ればもっと手が挙がるだろう。もはやクロノを好くのは早いか遅いかの問題だ。一緒にいたい人だと思われたいって、おまえそれ、どの口が言うんだ。
再びの堂々巡りに陥りそうになったシライは、目当てのカフェに着く前に足を止めた。釣られてクロノも足を止め、シライの方に目を向ける。
「……それじゃあおれがナンパしてやるよ。そこで待ってろ」
「分かった。おじさんがどんな手を使おうと、必ず断ってみせる!」
「なんでそうなる」
交際中だという認識を疑いたくなる強い瞳の輝きに、シライは思わずツッコミを入れた。
「誰か待ってんの?」
シライは交通量調査の係員並みにまっすぐ往来を見つめているクロノに声をかけた。最初からナンパだと分かっているのに無視せずに顔を上げ、目を合わせるところがクロノらしい。ちなみにこれが二回目の挑戦。一回目はシライが声を掛ける前にシライに気付いたクロノが嬉しそうな顔をしてしまい、やり直すことになった。
「うん、おじさんを待ってる」
「ずっとそうやってんじゃん。おじさん、連絡つかねぇの?」
「……ううん、ここで待ってろって」
もちろんずっとな訳はなく、クロノが一人で立っているのは、一回目を含めても五分ほど。クロノの返答の遅れは、シライの想定している状況を読むためだ。
シライはクロノの隣に勝手に陣取った。通りの名前が書かれた看板は、待ち合わせの目印になっても虫よけにはならない。
「おれ待ち合わせ時間間違えちまってさ、しばらく暇なの。一緒に待たねぇ? あっこの店なら、おじさんが来たらすぐ分かんだろ」
顎をしゃくって指したのは道路を渡った先にあるカフェだ。店内の様子は見えないが、テラス席が二つほど空いている。クロノを連れ出すより先に席が埋まってしまった場合の対策はもちろん考案済み。クロノがどう切り抜けるのかということを師匠目線で楽しみにしてしまいそうな自分を蹴飛ばして、シライはクロノに色目を使う。涼しい顔を保っているが、普段を、そして己の中学時代を知る身内を相手に色目を使う恥ずかしさは相当なものだ。
「うーん、おれはここでおじさんを待つって決めたから、おじ……おじさんとは行けない」
「そっか。じゃあそのおじさんが来るまで付き合う。面倒だろ、ナンパとか」
クロノの顔に驚きが浮かんだのを見て、シライはしてやったりとほくそ笑む。本来のナンパと違って待ち人は永遠に来ないのだ、お互いに。クロノはここで待つと宣言したのだから、移動することなく、まったく無関係のナンパ男であるシライを追い払わなければならない。シライとしては、クロノが待ち合わせ場所から移動する旨のメッセージでも入れてくれれば満足だ。
「……で、おじさんってどんなひと?」
助け船にならない話題の転換。シライはまだ対応できないでいるクロノに畳みかける。
「おじさんはダジャレが好きだ」
「そうじゃなくて、服装とか身長とか」
こういうときは無視しろよと思いつつ、シライは問い直した。何を聞くのかと言いたげなクロノの視線はごもっともだ。けれども、シライは自分がナンパしにきた初対面の男であるという設定を貫く。
「気になるだろ、こんないい子を待たせてるのがどんな男なのか」
「おじさんは悪くない。遅刻の原因はおれだ」
毅然とした態度で言い切って、クロノは腕組みをした。
「おじさんの待ち合わせ相手はどんな人なんだ?」
向けられたのは、困惑しているわけでも、挑みかかるような目でもない、切り替えを済ませた目だ。このまま双方共に待ち人来たらずで待ちぼうけ組でデートに行くというパターンもありうるか、とシライは予測を修正する。
「青っぽい短髪の、かっこいいやつだな。ちょっと頑固で融通が利かねぇとこあるけど、その分、決めたことはやり遂げる。身長はこのくらい」
シライはクロノの頭の高さに手をかざす。おまえのことだぞ、と目で念を押しても、クロノの表情は変わらない。ここで照れてくれたっていいのにな、と思ったが、かっこいいというのはともかく、後半は講評で言った覚えがあるから新鮮味がない。
「友達?」
「いーや、恋人」
「おじさんは恋人がいるのにナンパしてるのか?」
「……ナンパじゃ……いや……」
はぁ、とシライは溜め息をついた。潮時だ。設定が悪かった。待ち合わせより早く着いたというのが嘘なのだから、種明かしをするか、せめてクロノとは異なる人物像を挙げるべきだった。クロノを口説き落とすのが目的ではないために再挑戦を願い出る気にもならず、シライは首を振った。
「どうだクロノ、初めてナンパされた気分は」
「おじさんの知らない顔を見られておもしろかった」
「やめろよその感想」
シライは顔を覆いたいような気持ちで、何度目かになる歩行者信号の点滅を眺める。当初の目的のカフェは通りの向こうの店ではなく、このまま道なりに進んだ先にあるから、信号が変わろうが変わらまいが関係ない。
行くか、と声を掛ければ、今度のクロノは素直に頷いた。
「おじさんが最初は知らない人だったことを思い出した」
「おー、あんときゃ随分と手の掛かるガキだと思ったぜ。まったく、頑固で人の話聞かねぇの。眼光ばっか鋭くてよ」
「おれの中のおじさんはずっとダジャレが好きだ」
「剣技の披露だけじゃ嫌疑は晴れなかったからな」
トラックを斬って見せても反応は芳しくなく、開眼を使うまで好感を得られなかったことをシライは思い起こす。妹が助かったと思ったことが表情の晴れやかさの理由の一つでもあったのだろうが。
「変なやつに絡まれたときはさっさと移動しちまえよ。おれはちゃんとおまえを見つけるから」
「話しかけられるのが嫌なことはないから、おれはそこで待つ。おじさんの話だって聞いてただろ。指示に従わなかっただけで」
「おまえなぁ」
「でもおれはおじさんと早く会いたかったから、ナンパは思ってたよりよくなかった。もう言わない」
「……ならいい」
目当ての店が見えたところで、クロノが「あれだな」と明るく言う。シライも自分の機嫌が甘いものを食べてしまえば元通りになるのが分かっているから、それ以上の追求はしなかった。
何もかも、クロノの意思があった上ではあるのだ。
惚れたもん負けだな、とシライは思った。
- 投稿日:2025年8月29日
- シライが嫉妬する話が読みたいと言う小園さんから冒頭をもらいました。